HISTORICAL PERSON · 795年没

ハドリアヌス1世 (ローマ教皇)

ローマ生まれの教皇(在位772〜795年)。ランゴバルド王国に脅かされ、773年にフランク王カール1世に援軍を要請した。カールはパヴィアを占領して王を捕らえ、中部イタリアの地を教皇に寄進した。

生涯
795年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ハドリアヌス1世は、8世紀後半のローマ教皇(在位772年2月1日〜795年12月25日)である。ローマの生まれで、生年は700年頃とされるが確かではない。ローマの軍事貴族の家柄で、ドミニ・デ・ヴィア・ラタと呼ばれる一族の出身であり、父テオドルスは彼がまだ幼いうちに没したため、父方の叔父で執政官・公・聖ローマ教会の首席書記官を務めたテオドトゥスに引き取られたという。

彼と歴代の教皇は、イタリアでの領土拡大をたびたび試みるランゴバルド人への対応に苦しんでいた。ランゴバルド人は教皇庁に対して表向きは敬意を示していたが、教皇たちは彼らを信用せず、抑えるために東ローマ帝国の援助を求めてきた。ハドリアヌス1世もこの方針を受け継いだが、コンスタンティノポリスからは直接の支援が得られなかったため、フランク人に助けを求める道を選んだ。背景には、768年にフランク王ピピンが没して王国が息子のカール(後のカール大帝)とカールマンに分けられ、兄弟の関係が緊張していたという事情がある。771年12月にカールマンが没すると、カールはその領土を奪い、未亡人ゲルベルガと二人の息子はランゴバルド王デシデリウスの宮廷があるパヴィアに逃れた。

772年に即位して間もなく、教皇領はデシデリウスの侵攻を受けた。デシデリウスはカールマンの息子たちの相続権を認め、二人をフランク王として戴冠するよう教皇に求めたが、教皇がこれに応じなかったため、父ピピンの時代に教皇領へ与えられていたペンタポリス公領を奪ったとされる。そこで773年、ハドリアヌス1世はカール1世に援軍を要請した。カールはただちにアルプスを越えてイタリアに攻め込み、パヴィアを包囲して、翌774年に占領した。デシデリウスは捕虜となってフランスのコルビー修道院に追われ、カールは自らランゴバルド王を名乗り、ペンタポリスと奪った旧ランゴバルド領の一部を教皇庁に返還した。教皇は多くを期待していたが、ローマ公領、ラヴェンナ総督領、アドリア海沿岸のペンタポリスなどの増加で満足せざるを得なかったとされる。また、中部イタリアの地は父王ピピンにならってカールから教皇に寄進されたとも伝えられる。

この頃、教皇は史上最初の教皇貨幣を鋳造し、文書の日付を東方の皇帝の治世ではなく、フランク王カールの治世で記すようになった。中世の教皇庁が進む方向を示す出来事であり、教皇はカールに「ローマの貴族」の称号を与えたとされる。彼は相続した所領と近隣から得た土地を集めて、ローマ北方にカプラコルム御領地と呼ばれる大きな農園を築いた。この農園は穀物、ぶどう、オリーブ、野菜、養豚を営む自給自足の所領で、遺構は1960年代の発掘で再発見された。ゆるやかな丘の上にあって防備は十分でなかったが、製粉所、鍛冶場、瓦窯も備えていたという。10世紀には、この所領の中からいくつかの村が切り出された。

786年には、アミアン司教ゲオルクが教皇に宛てた書簡に、教会会議の決定が「ラテン語とテオディスクスで読み上げられた」との記述があり、この語はゲルマン語で「民衆」を意味する語に、出身や所属を示す接尾辞がついた形で「民衆の」という意味になり、ドイツ語を指す最初の例とされて、一時は史学で議論を呼んだ。ハドリアヌス1世は795年12月25日に没した。

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