伝記
ノア・ウェブスター・ジュニアは、1758年10月16日に生まれ、1843年5月28日に没したアメリカの辞書編纂者、教科書編集者、綴り字改革運動家、政治評論家である。著した綴字教本『ブルーバックド・スペラー』は、およそ一世紀の間、アメリカの子供たちに読み書きを教えるのに用いられた。史上初の本格的な米語辞書『アメリカ語辞典』(1828年初版)の編纂者であり、アメリカで単に「ウェブスター」といえば「辞書」と同義である。
ハートフォード西部地区(後のウエストハートフォード)の良家に、父ノア・シニアと母マーシーの第4子として生まれた。父は農業を営み、教会の助祭や独立戦争時の自警軍の隊長を務め、大学には籍を置かなかったが、教育を重視した。母は子供たちに綴り方や数学、音楽を教えた。6歳で教室が一つきりの老朽化した学校に通い始め、後年、教師たちを「人間として小さい」と述懐し、指導が主に宗教的なことに不満を表した。この経験が、将来世代の教育を改善しなければならないという動機となった。14歳から牧師にラテン語と古代ギリシア語を教わり、16歳の誕生日の直前にイェール・カレッジに入学した。在学した4年は独立戦争と重なり、授業の多くを他の町で行わざるをえなかった。
1779年にイェールを卒業したが、進路の準備を何もしていなかった。父は息子の学費のために農場を抵当に入れており、卒業後も生活力のない息子を勘当同然に扱い、強い挫折感を味わわせた。法学を学んで1781年4月に司法試験に合格したが、戦争が続いていたため仕事を得られなかった。同年春、コネチカット西部に私立学校を開いたが、間もなく閉めて町を去った。ある牧師からフランス語とフランス啓蒙思想を学び、特にルソーの影響を強く受けた。その後ゴーシェンで私立学校を始めたが経営は苦しく、既存の英語教科書への不満から、新しい教科書を書こうと思い立った。当時のアメリカにはどの州にも著作権法がなく、各州での成立を目指して活動し、1783年にコネチカット州で成立すると、『英語文法の原理』の第一部であるスペラーの出版を開始した。初版5,000部は一年を待たずに完売したと伝えられ、この収益が、辞書の執筆に要した長い年月を支えることになる。
1787年10月には、「アメリカの一市民」の筆名で、『合衆国憲法における主要原理の考察』を発行し、連邦主義を擁護した。1789年に創刊した雑誌は商業的に成功せず、同年に廃刊となった。レベッカ・グリーンリーフと結婚し、1790年にはハートフォードで弁護士として安定した収入を得ていた。1793年、ワシントンの支持者たちが連邦党の機関紙の編集者として彼を選び、ハミルトンら10余名が各150ドルを貸与した。ニューヨーク初の日刊紙『アメリカン・ミネルヴァ』を発行し、ワシントンらを擁護した。ジェイ条約の擁護で、民主共和党の支持者から激しく糾弾され、1798年にニュー・ヘイヴンへ去った。
1800年から辞書の編纂に取り組み、1806年に『簡約英語辞典』を出版した。1808年に第二次大覚醒運動の集会に衝撃を受け、カルヴァン主義正統派に転向した。1812年にはマサチューセッツ州アマーストに移り、アマースト・カレッジの設立に協力した。1824年にヨーロッパへ渡り、1825年1月にケンブリッジで辞書を脱稿し、1828年に『アメリカ語辞典』を出版した。1843年にニューヘイヴンの自宅で倒れ、肺炎をこじらせて家族に見守られて没し、最後の言葉は「私は神の御こころに完全に従うものです」だったという。
同じ年に亡くなった人物
- 平田篤胤 (1843年没)
- ヨーゼフ・ランナー (1843年没)
- ドミンゴ・カイセド (1843年没)
- モリッツ・ミヒャエル・ダフィンガー (1843年没)
- 純祖 (1843年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョン・J・マクロイ (1989年没)
- ラルフ・リントン (1953年没)
- ウォレス・スティーヴンズ (1955年没)
- アーサー・ミラー (2005年没)
- ローラ・ニーロ (1997年没)