HISTORICAL PERSON · 755年没

アブー・ムスリム

アッバース朝の軍人・政治家。ホラーサーンでアッバース革命を指導し、反ウマイヤ朝運動を率いて、アッバース朝の建国に大きく貢献した。

生涯
755年没
死亡地
アッバース朝(ディヤーラー県 / セレウキア-クテシフォン)
出生地
トルクメニスタン(メルブ遺跡)
出典
世界地図
アッバース朝(ディヤーラー県)

伝記

アブー・ムスリムは、アッバース朝の政治家・軍人で、ホラーサーン地方におけるアッバース革命の指導者である。生年は不明で、英語版は718年か719年、あるいは723年から727年ごろのいずれかとする。出自と前半生には不明な点が多く、父の出自は分からず、母はイラン系の女奴隷と考えられている。クーファ近郊の生まれとされるが、エスファハーンやメルヴの出身とする説もある。彼自身は出自を尋ねられても言葉を濁したといい、内部分裂を防ぐためにあえて隠したと推測する意見もある。

若い頃はクーファで、アラブ系のイジュル家に奴隷またはマワーリー(解放奴隷)として属した。クーファは、アラブ人を優遇するウマイヤ朝への不満が渦巻く土地で、彼はここでシーア派の人々と接した。英語版によれば737年に極端派の宗派と交わった疑いで投獄され、741年ごろ、メッカへ向かうアッバース家の宣教師たちによって釈放された。745年か746年、アッバース家の家長の代理としてホラーサーンに派遣された。ウマイヤ朝の監視をくぐるため、みすぼらしいロバに乗って現れたと伝えられる。彼は不満を抱く人々を糾合し、ウマイヤ朝打倒の政治的・宗教的熱意を高めていった。

747年6月15日、彼の軍はメルヴ近郊で、アッバース家の象徴である黒旗を掲げて蜂起した。衣服と旗を白で統一するウマイヤ朝に対し、黒一色を用いたのである。周辺の住民が続々と加わり、兵数は7,000人に達し、シーア派のアラブ人だけでなく、民族差別に反感を抱くイラン系の人々も従軍した。748年にメルヴを占領して総督ナスルを追い、ニーシャープールも押さえた。配下のカフタバ父子らが率いる革命軍は西進し、クーファに入城した。イブラーヒームがウマイヤ朝に捕らえられて殺されると、誰をカリフとするかが問題になったが、彼はカリフ選出に強い発言力を持ち、革命軍とともに弟アブー・アル=アッバース(サッファーフ)にいち早く忠誠を誓った。のちにはサッファーフに諮られ、刺客を雇って宰相アブー・サラマを暗殺した。

アッバース朝の成立後はホラーサーン総督となり、メルヴにとどまって統治に努めた。751年にはタラス河畔の戦いで、部下ジヤードの軍が唐の高仙芝の軍を破った。土着の領主には自治を認め、決めた額の税を取るにとどめて懐柔したため、ホラーサーンは彼と領主たちの連合政権の性格を帯びた。中央集権を進めるサッファーフとの関係は悪化し、彼はサッファーフを支持するジヤードらを処刑した。兄アブー・ジャアファルは排除を進言したが、サッファーフは処刑をためらった。754年にサッファーフが没し、マンスールが即位すると、叔父アブドゥッラーの反乱を破ってこれを支えた。しかし755年2月、ハーシミーヤの宮殿でマンスールに罪状を列挙されて責められ、敵との戦いに備えて生かしておくよう懇願したが、マンスールは「お前よりも恐ろしい敵はいない」と答えて、刺客に殺させたという。遺体はチグリス川に捨てられた。

彼の死は受け入れられず、再び現れると信じる熱烈な崇拝者が多かった。ホッラム教徒は彼の死後に反乱を起こし、776年には書記のハーシムがムカンナーの反乱を起こした。挙兵以後に彼が殺した人の数は60万人に達するとも言われる。背が低く色黒で美しい容姿だったと伝えられ、声は優しく、アラビア語とペルシア語を解し、多くの詩を暗記していたという。アッバース家の家長イブラーヒームはその才能を全てを砕く「地中の巨石」にたとえ、のちのカリフ、マアムーンはアレクサンドロス3世やアルダシール1世に並ぶ英雄と評した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物