伝記
フラーテス2世は、アルサケス朝パルティア王国の王である。ミトラダテス1世の子で、母は中央メディアの有力者の娘とされるリインヌである。即位は紀元前139年から132年ごろまでのいずれかとされ、在位は紀元前128年ごろまで、没年も紀元前128年とされる。幼くして即位したため、母リインヌが摂政を務めたといわれる。
即位後、フラーテス2世は南イランのペルシス地方にダラヤン1世を王として据え、エリュマイス王ティグライオスを破って捕らえ、後任に若いカムナスキレスを属王として立てた。父の計画を継いでシリア征服を考え、捕虜となっていたセレウコス朝の前王デメトリオス2世ニカトルを、その弟である新王アンティオコス7世シデテスに対する道具に使うつもりだった。デメトリオスは友人の助けを得て何度も逃亡を試みたが、そのたびにヒュルカニアの妻子のもとへ戻された。父と同じく丁重に扱ったという。
紀元前130年、アンティオコス7世は計画を察して大軍を率いパルティアに攻め入った。多くの有力者が彼に加わり、ユダヤのヨハネ・ヒルカノスの部隊も参加した。アンティオコスは三度の戦いに勝ってバビロニアを取り戻し、リュコス川のほとりでパルティアの武将イダテスを破って戦勝記念碑を建てた。フラーテス2世は北方の騎馬遊牧民サカ族を傭兵に雇うつもりだったが、到着した時には戦いは終わっており、賃金を払わなかった。冬を迎える頃に和平の交渉が始まったが、アンティオコスは、デメトリオスの釈放、パルティア本土以外の領土の返還、貢納の再開という3つを求めた。これに憤ったフラーテス2世は交渉を打ち切り、戦いに備えた。
アンティオコスの軍はエクバタナなどに分散して冬営した。住民に兵の養いを負担させ、兵士による暴行もあったらしく、人々の反感を買った。紀元前129年の春、フラーテス2世が冬営地を襲うと、住民は彼に味方し、セレウコス軍は敗走した。アンティオコスは部下に見捨てられ、戦死あるいは自殺で世を去り、セレウコス朝のユーフラテス以東の支配は終わった。遺体を前にしたフラーテス2世は、「アンティオコスよ、おまえの大胆さと酒癖が破滅を招いた。大杯でアルサケスの王国を飲み干せると思ったのだ」と語ったと伝えられる。フラーテス2世は、アンティオコスの幼い息子セレウコスと娘ラオディケを捕らえた。ラオディケを妻に迎え、セレウコスには王家の者にふさわしい待遇を与えた。遺体も王にふさわしく扱い、銀の柩に納めてシリアへ送った。
またデメトリオス2世を釈放し、パルティア騎兵の先頭に立たせてシリアへ送り出した。のちに釈放を悔いて再逮捕を命じたが、捕まらなかった。シリア侵攻を決意してバビロニアに入ったが、東方の国境にサカ族などの遊牧民が侵入したため、これをあきらめた。侵入者の先頭にいたのは、先にアンティオコスとの戦いで雇われながら賃金を得られなかった傭兵たちで、賠償金か新たな雇用を求めたが、パルティア側の傲慢な返答に怒り、領内を荒らし始めたという。ほかの侵入者は、匈奴に追われた月氏が西へ逃れ、その月氏に追われたサカ系の集団が新天地を求めて来たものとされる。ヒュルカニア出身の寵臣ヒメロスを総督に任じて東へ向かい、軍には、アンティオコスの軍から捕らえたギリシア人部隊も加えた。彼らはパルティアで冷遇されていたため敵に寝返り、フラーテス2世は紀元前128年の戦いで殺された。後を継いだのは叔父のアルタバノス1世である。
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