HISTORICAL PERSON · 754年没

聖ボニファティウス

フランク王国にキリスト教を伝えた宣教師で、「ドイツ人の使徒」と呼ばれる聖人。723年にトールの聖なるオークを切り倒し、カロリング朝の庇護でマインツ大司教となり、754年にフリースラントで殺された。

生涯
754年没
死亡地
オランダ(フリースラント州 / ドックム)
出生地
イギリス連邦(クレディトン)
出典
世界地図
オランダ(フリースラント州)

伝記

聖ボニファティウスは、8世紀にフランク王国とゲルマニアにキリスト教を広めたイングランド出身の宣教師で、殉教者である。675年頃(672年頃とする記述もある)にウェセックス王国、現在のイングランドのデヴォン地方で、裕福で地位のある一家にウィンフリートの名で生まれた。まだ若いうちに、父の希望に反して修道士の道を選び、エクセター近くの修道院で学んだのち、サウサンプトン西端のナースリングのベネディクト会修道院で、ウィンバート院長のもとで神学を修めた。修道院付属の学校で教え、30歳で司祭となり、イングランドで最初のラテン語文法書を著したと伝えられる。

716年、彼はフリースラントへ伝道に赴いた。現地の古フリジア語が自分の母語であるアングロサクソン語に近いことから、現地語の説教で人々を改宗させようとしたのである。しかしカール・マルテルとフリースラント王ラートボートの戦争に阻まれ、ナースリングへ戻った。718年にローマを訪れ、719年に教皇グレゴリウス2世から、「善をなす人」を意味するボニファティウスの名を与えられ、ゲルマニアでの伝道と教会の整備を命じられた。その後5年ほどヘッセン、テューリンゲン、フリースラントで働き、722年11月30日にゲルマニアの司教に昇任された。

723年、ヘッセン北部のガイスマー村で、雷神トールにささげられた聖なるオークの大木を切り倒した。預言者エリヤを念頭に、もしこの木が聖なるものなら自分に雷を落とせとトールに呼びかけたという。最初の伝記を書いた同時代人ウィリボールドによれば、彼が切り始めると突然の大風が起こり、古木をなぎ倒した。雷が彼に落ちないのを見た人々は、キリスト教に改宗したとされる。彼はその木材で礼拝堂を建て、これが現在のフリッツラー司教座聖堂の起こりとなった。この伐採は、ゲルマニアのローマ帝国時代の国境の北部と西部におけるキリスト教化の始まりと見なされている。

布教の後ろ盾となったのは、フランク王国の宮宰で、のちのカロリング朝の支配者たちであった。彼は723年からカール・マルテルの庇護を受け、732年にローマへ報告に赴いてパリウムを受けた。737年から738年の3度目のローマ訪問ののち、ライン川東の全ゲルマニアの大司教と認められ、745年にはマインツを司教庁として与えられた。742年には弟子の一人がフルダ修道院を建設している。一方で、教皇やバイエルンの支配者との関係を利用してカロリング朝からの独立も保ち、751年のピピン3世の戴冠式では戴冠を行った可能性がある。その活動は教皇ザカリアスから高く称賛された。

彼はフリースラントへの伝道の希望を捨てず、754年にわずかな従者を連れて赴き、多くの洗礼を行った。集団堅信式を開いた場所に信者は現れず、武装した現地人の集団に刺殺された。英語版によれば、彼は他の52人とともに殉教した。フリースラントの法では、彼らの神殿を壊した者を殺す権利があったとされる。遺骸はしばらくユトレヒトにあったが、やがてフルダの修道院に葬られ、その墓所は今も巡礼地である。祝日は、カトリック教会などでは6月5日、正教会では12月19日である。彼はフランク教会の改革者であり、教皇とカロリング家の提携を進めた中心人物でもあったと英語版は評価し、その努力によって彼が提案した司教区の多くが今も残る。2019年にはデヴォン州の守護聖人としても正式に認められた。ドイツの守護聖人として「ドイツ人の使徒」と呼ばれ、トールのオークの跡に樅が育ったというクリスマスツリーの伝説も語られている。

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