HISTORICAL PERSON · 紀元前401没

メガビゾス

アケメネス朝の将軍。バビロンの反乱を鎮め、シリア総督としてエジプトのイナロスの反乱も鎮圧してイナロスを捕らえた。

生涯
紀元前401没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

メガビュゾスは、アケメネス朝ペルシアの将軍である。バビロニア総督ゾピュロスの子で、ダレイオス1世を王位に就けた7人の共謀者の一人、メガビュゾス1世の孫にあたる。没年は紀元前401年とされるが、活動の中心は紀元前5世紀の前半から半ばにかけてで、王家の姻戚として帝国の反乱鎮圧に働き、のちには自ら王に背いた人物である。

紀元前484年、バビロニアが反乱を起こしてゾピュロスが殺されると、メガビュゾスは軍を率いて都市を奪い返した。このとき再起を防ぐため、神マルドゥクの像が破壊されたという。その後はペルシアによる第二次ギリシア侵攻(紀元前480〜479年)に加わった。ヘロドトスは、デルフォイを略奪せよという命令をメガビュゾスが拒んだと述べているが、そのような命令が実際に出されたかは疑わしいとされる。

クテシアスによれば、メガビュゾスの妻でクセルクセスの娘であるアミュティスが、まもなく不義を疑われた。メガビュゾスはこの件でアルタバノスによる王の暗殺の陰謀に加わったものの、新王アルタクセルクセスまで殺される前にアルタバノスを裏切った。戦闘でアルタバノスの息子たちは倒れ、メガビュゾスも負傷したが、アミュティスのとりなしで治療を受けたという。のちにメガビュゾスはシリア総督となった。

紀元前465年にクセルクセス1世が暗殺されて子のアルタクセルクセス1世が継ぐと、帝国の各地で反乱が起こり、なかでもバクトリアとエジプトが目立った。エジプト人イナロスはペルシア総督でありアルタクセルクセスの兄弟でもあるアカイメネスを破り、下エジプトを掌握した。イナロスは、公式にはなおペルシアと戦争状態にあったギリシア人に接触し、紀元前460年、アテナイは船200隻と重装歩兵6,000人の遠征軍を送った。エジプト・アテナイ連合軍はメンフィスを占領し、ペルシア人の籠もる城塞を数年にわたって包囲した。トゥキュディデスによれば、王ははじめスパルタを買収してアッティカに侵攻させ、アテナイ軍をエジプトから引き離そうとしたが、失敗したため、メガビュゾスに大軍を預けて送り出した。ディオドロスは、フリュギア総督アルタバゾスとともに30万の兵を率いたと述べ、二人はまずキリキアへ行き、キリキア・フェニキア・キプロスから三段櫂船300隻の艦隊を集めて、1年かけて兵を訓練したという。ただし近年の推定では、ペルシア兵は2万5,000人ほどとされる。メガビュゾスはエジプトに着くとまもなくメンフィスの包囲を解き、エジプト人を戦いで破ってアテナイ人を市から追い出した。アテナイ人はナイル・デルタのプロソピティス島に退き、船を係留した。メガビュゾスは18か月包囲し、運河を掘って川の水を島の周りから抜き、島を陸続きにした。トゥキュディデスの記述では、ペルシア軍はそこから島に渡って占領し、リビア経由でキュレネに向かった少数のアテナイ兵だけが生還した。ディオドロスの記述はやや異なるが、この敗北でアテナイはデロス島の財宝をアテナイへ移すほどの動揺に陥っており、トゥキュディデスの説のほうが正しいと考えられている。

メガビュゾスらはその後、キモン率いるアテナイ軍に攻められていたキプロスへ目を向けた。まもなくペルシアとアテナイの敵対は終わり、カリアスの和約と呼ばれる。のちにメガビュゾスは自ら反乱を起こした。クテシアスは、エジプトの反乱の捕虜に危害を加えないと約束していたのに、アメストリスが彼らを処刑したことが理由だと述べる。王の甥である王子メノスタネスやエジプト人ウシリスの率いる軍が彼に差し向けられたが、資料はここで途切れている。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物

該当人物はまだありません。