伝記
伊然可汗は、東突厥第二可汗国の可汗である。毘伽可汗の長男で、姓は阿史那氏、名は不明とされる。伊然可汗とは可汗号であり、古テュルク語のイネル・カガンを漢字で写したものである。唐の側ではアイ・カガンとも呼ばれ、オルホン碑文の書き手として知られる人物としては、ヨルリグ・テギンの名で呼ばれることが多い。生年ははっきりしないが、闕特勤の甥にあたる。母は暾欲谷の娘のクトゥルグ・セビグ・ハトゥンとされる。生まれたときの名はイジャンといい、若い頃のことについてはほとんど知られていない。
開元22年(734年)、父の毘伽可汗は、大臣の梅録啜に毒を盛られて世を去った。国人はその子を立てて可汗とし、これが伊然可汗である。唐の玄宗は、詔によって宗正卿の李佺を弔問に遣わすとともに、伊然可汗を冊立し、碑と廟を建てさせた。その碑文は、史官で起居舎人の李融が書いたとされる。可汗の位に就いたのち、父の政策を引き継ぎ、可汗国の内部の結束を保つことに努めた。分立しがちな諸部の勝手な動きを抑え、唐との間では穏やかな関係を保つ方針を続けた。在位中には、唐の玄宗のもとへ三度、使節を送って贈り物を交わしたという。
可汗となる前、伊然可汗はヨルリグ・テギンと名乗っていた。叔父の闕特勤と父の毘伽可汗、さらに祖先のイルテリシュ可汗を称える碑文をつづったのがこの人物とされ、碑文は、中国の職人の助けを借りて作られたとされ、毘伽可汗の碑文は、1か月と4日かけて完成したと伝わる。闕特勤の碑文については、20日座って石に刻んだと、自ら記している。その文章には、人の世の始まりを語り、祖先のブミン可汗とイステミ可汗が突厥の法でその民を治めたことを述べる部分がある。この碑文群は、第二可汗国の人々の文化の水準や、詩や散文、歴史の知識、思想をうかがわせるものとされる。ただし、碑文の言葉がどこまで彼自身のものかについては議論がある。ある説では、言葉の骨組みは毘伽可汗のものであり、伊然可汗はそこへ書き足して石に刻んだのだという。
在位は長くなかった。まもなく病を得て亡くなったとされ、没年については739年とも742年ともいわれ、さらに毘伽可汗の死の直後に亡くなったとする見方もある。後を継いだのは弟で、登利可汗(テングリ・カガン)と称した。なお、毘伽可汗の子でも闕特勤の甥でもなく、二人の師であったとする説もある。妻のユサイフは、744年より後に唐へ去ったとされる。