伝記
ポッポは、8世紀初頭のフリースラントの支配者である。ボッボ、ポポ、ブボなどとも記され、生年は不詳だが、734年に没した。フランクの年代記者はこの人物を公爵(ドゥクス)として扱うが、一般にはフリースラント王とされ、在位は719年から734年までとされる。異教、すなわち非キリスト教の信仰を守った人物であり、ラッドボッドの死後に名の知られる最初の統治者である。
一説には、ポッポは前王ラッドボッドの子で、スカンディナヴィアの王女を母にもつといわれ、674年ごろの生まれともされる。父の存命中は表に出ることが少なかったが、フランク人との戦いではフリース軍を率いたとされ、その指揮のもとでフリースラントはフランクの地へ大きく広がったという。しかし719年にラッドボッドが死去すると、この領土拡大は止まり、ポッポが権力を引き継いだ。ただし、ポッポが実際に支配したのは、ラッドボッド時代のフリースラント領の北半分ほどだったとみられている。また、ポッポはフランクの優位を認めなかった。妻はデーン人の王オンゲンドゥスの娘とされ、子にはのちにフリースラント王となるアフバルドがいたと伝わる。
南の大国フランク王国との対立は、733年に表立った。ポッポの支配下にないウェストルホアのフリース人がフランクに反乱を起こし、宮宰カール・マルテルに鎮圧されたのである(732年のこととする記述もある)。このとき囚われた人質はキリスト教に改宗してフランクの宗主権を認めたが、カールが引き揚げたのち、ほかのフリース人から罰せられた。この反乱はポッポが率いたものではなかったとみられている。翌734年、ポッポのもとに集まったフリース人が再び決起した。カール・マルテルは大型船を集めて大軍を整え、海からフリースラントに上陸した。ウェストルホアとオーステルホアへの上陸では抵抗を受けなかった。カールの目的はポッポを服従させることにあったため、道中のフリース人を罰することもなかったという。フランク側には、フリースラントを通る交易、とりわけドンブルフやドレスタットを経る交易への関心があったと考えられている。
両軍は、当時フリースラントの商業の中心地の一つであったボーン川の土手、おそらくオルデボールンあたりで対峙した。フランク軍は上陸すると野営地を要塞化してから戦いに臨み、フリース軍は敗れた。ポッポは戦いの中で命を落とした。フランクの年代記は、ポッポを反乱者とし、この遠征を非キリスト教徒に対する正当な戦い、聖戦として記している。
ポッポの死は、フリースラントの異教文化が崩れていくうえで大きな節目となった。カールは神殿を破壊させ、多くの戦利品をフランクの地へ持ち帰った。凱旋したカールにはローマ式の凱旋式が行われたとみられ、年代記者は「勝利者」の称号を与えている。ポッポはフリースラントで王を名乗った最後の人物ともいわれる。