伝記
トマス・ロバート・マルサスは、イギリスの経済学者で聖職者である。古典派経済学を代表する経済学者の一人で、人口論と、過少消費説、有効需要論で知られる。1766年2月、イングランドのサリー州に、ダニエル・マルサスの子として生まれた。父は弁護士で植物学者の啓蒙主義者であり、ルソーやヒュームと親交があった。マルサスの生まれた1766年には、自宅にルソーとヒュームを招待している。母ヘンリエッタ・キャサリンは、国王ジョージ2世・ジョージ3世の薬剤師を務めた人物の娘であった。口唇口蓋裂があり、話し方に影響したが、その家系では過去の世代にも同じ先天性の障害があったという。社会理論家ハリエット・マーティノーは、耳が不自由だったが、彼の響きのよい声だけは補聴器なしでもよく聞こえたと述べている。
家庭教師の指導と、父からのきめ細かな教育を受けて育った。1782年からウォリントン・アカデミーでギルバート・ウェイクフィールドに学び、同アカデミーが閉鎖された1783年以後も、ウェイクフィールドの家で一定期間、指導を受けた。1784年、18歳でケンブリッジ大学ジーザス・カレッジに入学し、数学と文学を学んだ。英語の弁論やラテン語、ギリシャ語で賞を取り、数学で優等の9位となって卒業した。1788年に卒業すると、聖職を目指して勉学に励み、1789年に英国国教会の聖職に就いて、サリーのオークウッド礼拝堂の助任司祭となった。のちに「マルサス師」と呼ばれる。1791年に修士号を取り、1793年に母校のジーザス・カレッジの特別研究員となった。その間の1796年に『危機』を著したが、出版はしなかった。
1798年に匿名で小冊子の主著『人口論』を刊行した。人口は幾何級数的に増加するが、食糧は算術級数的にしか増加しないため、人口過剰、すなわち貧困が生じ、これは必然であって、社会制度の改良では回避できないとする見方である。父とその仲間たちが抱いていた社会の将来についての楽観に反発して書き、またウィリアム・ゴドウィンやコンドルセの著作への応答でもあった。食糧生産の増加は一時的に生活を改善するが、人口の増加を招き、もとの水準に戻る、という見方は、のちに「マルサスの罠」と呼ばれた。多くの批判を受けた。1799年にドイツ、スウェーデン、フィンランド、ロシアに滞在し、各国の人口を観察して自説の補強に努めた。1803年に『人口論』第2版を出し、政治経済に関する重要な論文を追加した。非難も多かったが名声も高まり、産児制限で最貧困層を救う考えは「マルサス主義」とも呼ばれた。
1805年には、新設された東インド会社付属学校(ヘイリーベリー・カレッジ)の政治経済学教授となり、官僚の育成に当たった。経済学の教授の任命は、イギリスでは初めてであった。この職を終生務め、その間に『人口論』を改訂した。救貧法は、貧者に人口増加の動機を与え、貧困にとどめておく効果があるとして、漸進的に廃止すべきだと主張した。1820年の『経済学原理』は、リカードの経済説への反論である。人口についての考察は、ダーウィンの進化論に影響を与えたとされる。ケインズは、リカードでなくマルサスが19世紀の経済学の根幹をなしていたなら、今日の世界ははるかに賢明で富裕になっていたと評している。1834年12月、保養地のバースで没した。
同じ年に亡くなった人物
- ジャック・バルマ (1834年没)
- チャールズ・ラム (1834年没)
- フランソワ=アドリアン・ボイエルデュー (1834年没)
- アレクシウス・フリードリヒ・クリスティアン (アンハルト=ベルンブルク公) (1834年没)
- フリードリヒ・シュライアマハー (1834年没)
同じ地域に関係する人物
- John Harington (1612年没)
- エドレッド (955年没)
- チャールズ・ウォーレン (1927年没)
- サミュエル・ダニエル (1619年没)
- スタンリー・セイディ (2005年没)