伝記
チャールズ・ラムは、1775年2月10日に生まれ、1834年12月27日に没したイギリスの作家、エッセイストである。詩人であり古物研究家でもあった。『エリア随筆』は随筆の傑作と評価され、姉メアリーとの共著『シェイクスピア物語』も知られる。コールリッジ、サウジー、ワーズワース、ヘイズリットらと交友があり、英国の文学サークルの中心にいた。主要な伝記作者ルーカスは、彼を「英文学で最も愛すべき人物」と呼んだ。
ロンドンのインナー・テンプル法学院の一角で、弁護士の書記ジョン・ラムの息子として生まれた。父は、同法学院にいた法廷弁護士サミュエル・ソールトの秘書として職業生活の大半を過ごした。兄ジョン、姉メアリーがおり、ほかの4人のきょうだいは幼くして亡くなった。父方の叔母ヘティにも可愛がられた。幼少の最も楽しい思い出の多くは、母方の祖母が女中として長く仕えた大きな田舎屋敷で過ごした時間で、後に随筆『エリア』の中に描かれた。7歳以前のことはほとんど分かっていないが、メアリーに非常に早く読み方を教わり、貪欲に読書したという。天然痘にかかり、長く療養したとも伝わる。
1782年10月からクライスト・ホスピタル校に在学し、そこで詩人サミュエル・テイラー・コールリッジと終生続く親交を結んだ。校風は荒く、多くの生徒が暴力に苦しんだが、ラムは温和な人柄と、後援者ソールトが同校の理事だったこともあって、暴力をほとんど免れた。吃音があり、この「克服しがたい障害」のため、聖職への道が閉ざされた。コールリッジらがケンブリッジに進む中、ラムは14歳で学校を去り、実務的な職を探さねばならなかった。短期間、商人の事務所で働き、23週間を南海会社で過ごしたのち、ソールトの死で家が没落していたため、1792年に東インド会社の会計課に入り、そこで30年以上勤めて、恩給をもらって退職した。同年、祖母を看病していたとき、アン・シモンズという若い女性に恋をした。
1796年、姉メアリーが一時的な発狂の結果、ナイフで母親を刺殺した。ラムは結婚を断念し、精神疾患のため不定期に発作に見舞われる姉の面倒を、生涯見続けた。副業として始めた文筆業では、1798年にブランク・ヴァース集や『ロザマンド・グレイ物語』、1802年に詩劇『ジョン・ウッドヴィル』を発表し、姉との共著『シェイクスピア物語』は1807年に刊行された。1808年には『オデュッセウスの冒険』や、シェイクスピアと同時代の劇作家の作品集を出した。筆名「エリア」による随筆は、1823年に『エリア随筆』、1833年に『エリア最後の随筆』としてまとめられた。
同時代の批評家ヘイズリットは、ラムが「時代の精神」に順応せず逆行し、虚栄や自己主張に無縁で控えめで繊細であり、隠れたもの、遠いもの、沈黙した価値を好み、新しい顔、書物、建物、慣習を厭うと評した。書物の趣味では、ロバート・バートンの『憂鬱症の解剖』、トマス・ブラウン、フラー、バニヤンといった特殊な古典を好み、シェークスピアとミルトンを崇拝したという。絵画や版画の良き鑑賞者でもあり、ホガースやレオナルド・ダ・ヴィンチに感服していた。日本では福原麟太郎の『チャールズ・ラム伝』が読売文学賞を受賞し、戦後の読書界にラムの価値を広く知らしめた。
同じ年に亡くなった人物
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- ルイ・アントワーヌ・フォヴレ・ド・ブーリエンヌ (1834年没)
- ピエール・エディ (1834年没)
- ルイ=フィリップ (ベルギー王太子) (1834年没)
- ウィリアム・クロウフォード (政治家) (1834年没)
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- ハロルド・エイブラハムス (1978年没)
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