HISTORICAL PERSON · 1834年没

サミュエル・テイラー・コールリッジ

イギリスのロマン派詩人・批評家。ワーズワースとの共著『抒情民謡集』を刊行し、ロマン主義運動の先駆けとなった。

生涯
1834年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
イギリス連邦(オッテリー・セイント・メリー)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

サミュエル・テイラー・コールリッジは、1772年10月21日に生まれ、1834年7月25日に没したイギリスのロマン派詩人で、批評家、哲学者である。ウィリアム・ワーズワースとの共著『抒情民謡集』を刊行し、イギリスのロマン主義運動の先駆けとなった。

イングランド南西部デヴォンシャー州オタリー・セント・メアリーに、教区牧師の13人兄弟の末子として生まれた。幼い頃から読書に親しみ、6歳のときから父が校長を務めるグラマースクールに通って、神童と呼ばれた。9歳で父が亡くなり、ロンドンのクライスツ・ホスピタルに入学して、チャールズ・ラムと知り合い、生涯の友となった。1791年に奨学金を受けてケンブリッジ大学ジーザス・カレッジに入り、ジョゼフ・プリーストリーなどの著作を通じて、ユニテリアニズムに近づいた。借金と失恋のためにロンドンに出て、竜騎兵連隊に志願して入隊したが、ラテン語の落書きがもとで除隊し、4か月後には大学に戻った。

1794年にウェールズを旅した際、オックスフォードでロバート・サウジーらと知り合って親しくなった。この頃はフランス革命に共鳴し、サウジーらとアメリカ大陸のサスケハナに、理想の平等社会「万民同権共同体」を建設することを計画した。すでに渡米していたプリーストリーから土地の斡旋を受けて、1795年に出航する予定だったが、資金不足で断念し、考えの違いからサウジーとも別れた。資金集めの際に寄留したブリストルのフリッカー家の娘の一人、セアラと婚約し、1795年に結婚して、ブリストル近くのクリーヴドンに新居を構えた。やがて収入不足に陥り、政治宗教の週刊誌『見張り人』を発行したが、読者が付かず10号で廃刊し、家庭教師やドイツ文学の翻訳で生計を立てた。1797年、ネザー・ストーウェイの住居をワーズワース兄妹が訪れて意気投合し、合作詩集を作ることになり、『老水夫行』を巻頭に『抒情民謡集』(1798年)を刊行して、名声を得た。

1798年にウェッジウッド兄弟から研究助成金の申し出を受け、ワーズワースとドイツへ留学した。翌年からゲッティンゲンの大学に籍を置き、7月に帰国した。留学中に幼い次男が死去し、長く不在だったコールリッジと妻との関係は悪化した。1800年に『クリスタベル姫』第2部を書き上げたが、ワーズワースに『抒情民謡集』第2版への掲載を拒まれ、詩作への意欲が減退した。持病のリウマチ熱の痛み止めに使っていたラウダナムという阿片製剤への依存も増し始めた。有名な幻想詩「クーブラ・カーン」は、その陶酔のなかで書かれたといわれる。1804年から1年半、転地療養のためにマルタ島の総督書記の職を得て、一時は健康を取り戻したが、再び悪化し、1806年にロンドンに戻った。その後、シェイクスピアなどに関する講演を重ね、1813年には自身の劇「悔恨」を上演して、28日間の当たりをとった。

阿片中毒が進むなか、友人のジェイムズ・ギルマン医師の家で介護されながら、1816年に『クリスタベル、クーブラ・カーン、眠りの苦痛』を刊行し、1817年に『文学的自伝』を出版した。1823年にギルマン一家とハイゲイトに移り、「ハイゲイトの賢者」と呼ばれて、多くの名士が訪れた。批評家としては『文学的自伝』でロマン主義の理念を理論化し、「想像力」を定義づけた。ドイツ留学時に観念論を学び、カントの思想について独自の説を展開して、エマーソンの超越主義に影響を与えたとされる。1828年に全集3巻を刊行し、1834年に没して、ハイゲイト墓地に葬られた。

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