伝記
エリック・ジョン・アーネスト・ホブズボームは、1917年6月9日に、ポーランド系ユダヤ人の父のもと、エジプトのアレクサンドリアで生まれたイギリスの歴史学者である。幼年期はワイマール期のオーストリアとドイツで過ごした。1931年にはベルリンで、ドイツ共産主義青年同盟の分派にあたる社会主義学生連盟に加わった。1933年にイギリスへ渡り、ケンブリッジ大学で博士号を取得した後、ロンドン大学のバークベック・カレッジで教えた。1936年にグレートブリテン共産党に入党し、1946年から共産党系の歴史家の組織に加わって、亡くなるまで社会主義歴史協会の会長を務めた。
主な著作に、「長い19世紀」(1789年から1914年)を扱った三部作がある。『革命の時代』(邦訳は『市民革命と産業革命』)、『資本の時代』、『帝国の時代』である。1914年から1991年までを「短い20世紀」としてとらえた『両極端の時代』も著した。テレンス・レンジャーとの共著『創られた伝統』も知られる。2011年には、歴史雑誌が彼を、フェルナン・ブローデル、エドワード・P・トムスンに次ぐ、過去60年間で3番目に重要な歴史家に選んだ。保守派の雑誌は2002年に、おそらく現存する最も偉大な歴史家だと評し、歴史家ニーアル・ファーガソンも、同世代の偉大な歴史家の一人であることは疑いようがないと述べている。ニューヨーク・タイムズ紙は2003年に、筋金入りの共産主義者で、博識で優雅な筆致の歴史家と評した。
政治的には、1956年にソ連がハンガリーに侵攻して、数千人の党員が共産党を離脱したときにも、党にとどまった。ただしソ連の侵攻に対する歴史家たちの抗議書簡には署名した。トムスンらが離党してニューレフトとなった後も、彼らとの交流を保ったが、共産党指導部から不信感を抱かれ、1950年代末までに政治活動を停止させられた。1968年のプラハの春の自由化を強く支持し、その後に力を増した英国共産党内のユーロコミュニズム派の指導者となった。1960年代以降は、ソ連型の社会主義を唱えることはなくなり、政治思想はより穏健な方向へ変わった。1991年のグレートブリテン共産党の解党の直前に、党員資格を失効させた。
1994年のテレビのインタビューでは、スターリン体制の下で何百万人ものソ連市民が亡くなっても、真の共産主義社会が実現していれば価値があっただろうと述べ、批判を招いた。2002年の回顧録には、十月革命の夢は今も心のどこかに残っていると記している。歴史家トニー・ジャットは、膨大な知識と優雅な散文を称えつつ、共産主義の実態に向き合おうとしないと批判した。一方で、ホブズボームは、1983年から英国労働党を改革したニール・キノックを支持し、「キノックお気に入りのマルクス主義者」と呼ばれ、イタリア共産党とも緊密な関係を築いて、アントニオ・グラムシから大きな影響を受けた。最晩年の2011年の著書では、マルクスの分析の一部は有効だが、多くが時代遅れになったと述べた。死去するまで左派の立場を保ち、人類の長期的な展望は暗いと主張し続けた。2012年10月1日、病気のため、ロンドンのロイヤルフリー病院で死去した。
同じ年に亡くなった人物
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