HISTORICAL PERSON · 721年没

元明天皇

日本の第43代天皇で、草壁皇子の妃、文武・元正天皇の母。藤原京から平城京へ遷都し、和同開珎の鋳造や『古事記』の献上、『風土記』編纂の詔勅を行った。藤原不比等を重用し、娘に譲位した。

生涯
721年没
死亡地
日本(奈良県 / 奈良市)
出生地
—
出典
世界地図
日本(奈良県)

伝記

元明天皇(げんめいてんのう)は、日本の第43代天皇である。661年(斉明天皇7年)に生まれ、721年12月29日(養老5年12月7日)に没した。在位は707年から715年。女性天皇の一人で、諱は阿閇(あべ)という。天智天皇の第四皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の姪娘である。藤原京から平城京への遷都、『風土記』編纂の詔、『古事記』の完成、和同開珎の鋳造などを行った。

天武天皇4年(675年)には、十市皇女とともに伊勢神宮に親謁したという記録がある。天武天皇8年(679年)頃、1歳年下の甥にあたる草壁皇子と結婚し、680年に氷高皇女(のちの元正天皇)、683年に珂瑠皇子(のちの文武天皇)を産んだ。草壁皇子は681年に皇太子となり、686年に天武天皇が崩御したのちも即位が見込まれていたが、689年に即位しないまま早世した。そこで、珂瑠皇子が成長するまで、天武天皇の皇后だった鸕野讚良皇女(持統天皇)が皇位を預かった。697年に珂瑠皇子が文武天皇として即位すると、阿閇妃は同日に皇太妃となった。

707年、文武天皇が25歳で崩御した。孫の首親王(のちの聖武天皇)はまだ幼かったため、阿閇は皇后を経ないで即位した。708年に武蔵国秩父から銅が献じられると和銅と改元し、和同開珎を鋳造させた。大宝律令を整備して運用していく時期であったため、実務に長けた藤原不比等を重用した。710年に藤原京から平城京へ遷都したが、左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、右大臣の不比等が事実上の最高権力者となった。712年には諸国の国司に対し、荷役に就く民を気遣う詔を出し、同年、天武天皇の代からの勅令であった『古事記』を献上させた。713年には『風土記』の編纂と好字令を詔し、715年には郷里制が実施された。

晩年は、幼い首親王の子孫に皇統が安泰に継承されるよう手を打った。713年に首親王の異母兄弟を臣籍降下させて、首親王を文武天皇の唯一の皇子とし、翌714年に首親王を立太子させた。同年、娘の氷高内親王の食封を1000戸に加増し、715年には一品に昇叙した。娘の吉備内親王を妃とする長屋王家も取り立て、その子女を皇孫の待遇とした。しかし皇太子は数え15歳と若かったため、715年9月2日、氷高内親王(元正天皇)に譲位して太上天皇となった。女性天皇から女性天皇への皇位継承は、日本史上唯一の事例である。譲位後も政治の主導権は保ち続けた。

720年に不比等が病没すると、後任に長屋王を任じて皇親体制を固めた。721年5月に発病し、10月には長屋王と参議の藤原房前を枕元に召して後事を託し、房前を内臣に任じた。藤原氏の惣領の武智麻呂ではなく弟の房前を召したのは、藤原氏の政治的立場に歯止めをかけるものだったとされる。遺詔で葬送の簡素化を命じ、12月7日に61歳で崩御した。『万葉集』には短歌が3首残り、遷都の際には「飛鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ」と詠んだ。遺詔には、大和国添上郡の蔵宝山雍良岑でかまどを造って火葬し、他の地に改めるなと記されていた。喪儀は用いられず、12月13日に椎山陵に葬られた。陵は現在、宮内庁により奈良市奈良阪町の奈保山東陵に治定されている。和銅発見の地である埼玉県秩父市黒谷の聖神社には、元明天皇下賜と伝えられる和銅製の蜈蚣の雌雄一対が神宝として納められ、722年に元明金命として合祀されて今日に至る。和風諡号は日本根子天津御代豊国成姫天皇である。

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