伝記
1945年7月4日、大阪府大阪市に生まれた湯口栄蔵は、ミッドフィルダーとしてサッカーの道を歩んだ。明星高等学校を経て関西大学に進み、大学在学中から日本代表に選ばれたことが、競技者として大きな転機となった。学生の立場で代表を経験した湯口は、大学卒業後も競技を続ける道を選び、ヤンマーディーゼルサッカー部に所属した。
ヤンマーディーゼルでは1968年から1972年までプレーし、日本サッカーリーグ1部で通算66試合に出場、3得点を記録した。クラブでの活動と並行して日本代表としてもプレーし、1970年ワールドカップのアジア・オセアニア予選や1970年アジア競技大会の代表歴を持つ。国際Aマッチでは1969年から1970年にかけて5試合に出場し、1得点を挙げている。
湯口の名を特に印象づけたのは、1968年のメキシコシティオリンピックだった。1次リーグ第3戦のスペイン代表戦で、0対0のまま進んだ後半30分から途中出場した。この交代には、同組のブラジル代表がリードされている状況を知った長沼健監督が、準々決勝で開催国メキシコ代表との対戦を避けるため、「このままドローでよい」と伝える選手を送り出したという背景があるとされる。試合はそのまま引き分けとなり、日本代表は大会で銅メダルを獲得した。
この銅メダルによって、湯口は日本代表がオリンピックの舞台で成し遂げた成果を担った選手の一人として記録されることになった。国際試合での出場数は多くないものの、大学時代から代表に加わり、クラブではリーグ戦を重ね、国際大会では銅メダルを得るという経歴は、選手としての歩みを形づくっている。現役を退いた後は近畿大学サッカー部の監督などを務め、活動の軸を選手から指導者へ移した。
湯口は2003年2月2日、奈良県奈良市で胃癌により死去した。晩年の具体的な活動や、近畿大学での指導期間の詳細は出典本文からは分からない。一方で、メキシコシティオリンピックでの途中出場の経緯は、試合の状況と代表チームの判断を伝えるエピソードとして知られ、湯口の競技歴を後世に伝える一つの入口となっている。
同じ年に亡くなった人物
- ロバート・パーマー (2003年没)
- ヴェイッコ・ハクリネン (2003年没)
- レイチェル・ジ・ケイロス (2003年没)
- フェリックス・カスパー (2003年没)
- レスリー・チャン (2003年没)