伝記
キルペリク2世は、メロヴィング朝の12代目のフランク王である。在位は715年から721年。生年は672年ごろとされ(670年ごろとも)、721年2月13日に没した。キルデリク2世と王妃ビリキルディス(シギベルト3世の娘)の息子で、幼いころから修道院で過ごし、ダニエルと呼ばれていた。両親と長兄ダゴベルトは675年に暗殺されており、修道院に送られたのは一族の争いから命を守るためだったとされる。
715年にダゴベルト3世が死去すると、ネウストリア宮宰ラガンフリドによって修道院から連れ出され、ネウストリアの戦士たちに盾の上に掲げられて王位についた。このとき13歳だったともいわれ、43歳だったともいわれる。当初はラガンフリドの道具にすぎないと見られたが、実際には戦士であり指導者でもあって、いつも戦いの先頭に立って軍を率いたとされる。
716年、キルペリク2世とラガンフリドは、プレクトルードの孫テウドアルドの名のもとにプレクトルードとカール・マルテルが争っていたアウストラシアへ軍を進めた。フリース人の王レッドボットの軍と結び、ケルン近くでカール・マルテルを破って、カールはアイフェル山地へ逃れた。プレクトルードは王を認め、アウストラシアの財宝を引き渡した。しかし帰還の途中、アンブレーヴの戦いでカール・マルテルに敗れ、以後、ネウストリア領内での戦いで王の勢力は抑えられていった。
717年、カール・マルテルはヴァンシーの戦いでネウストリア軍を破り、キルペリク2世はアキテーヌ公ウードのもとへ逃れた。カールはクロタール4世を王位につけたが、キルペリク2世がネウストリアでの支持を保ったため、クロタール4世の王権はアウストラシアに限られた。718年にはウードと結んだが、ソワソンで再びカールに敗れ、ロワール川以南へ逃れた。やがてクロタール4世が死に、ウードも王を見限った。王は全フランクの王と認められる代わりに、カール・マルテルを全王国の宮宰と認めて政治の実権を譲り、パリに戻された。
719年には全フランクの王として改めて盾の上に掲げられたが、その後は一年ほどしか生きられなかったとされる。721年、アティニーで死去してノワイヨンに葬られ、後継の王にはカール・マルテルによってテウデリク4世が選ばれた。以後の王は実権のない王にとどまった。子にはキルデリク3世がいたともいわれるが、確かではない。
同じ年に亡くなった人物
- テルヴェル (721年)
- アルサム・イブン=マリク (721年)
- プリュムのベルトラダ (721年)
- 元明天皇 (721年没)
- アルド (721年)
同じ地域に関係する人物
- ユーグ・ド・フランス (1025年没)
- ナジェジダ・ペトロヴナ (1988年没)
- ジャン=バティスト・ウードリー (1755年没)
- ギー (フランドル伯) (1305年没)
- 聖エリギウス (660年没)