HISTORICAL PERSON · 1831年没

イオアニス・カポディストリアス

ロシア帝国の外務大臣を務め、のちオスマン帝国から独立したギリシャの初代大統領となった。

生涯
1831年没
死亡地
ギリシャ共和国(ペロポネソス / ナフプリオ)
出生地
ギリシャ共和国(ケルキラ島)
出典
世界地図
ギリシャ共和国(ペロポネソス)

伝記

イオアニス・カポディストリアスは、1776年2月11日に生まれ、1831年10月9日に暗殺されたギリシャの政治家であり、伯爵である。ロシア帝国の外務大臣を務め、のちにオスマン帝国から独立したギリシャの初代の国家元首となった。現代ギリシャの国家の創設者、独立の設計者として尊敬され、中世や現代のギリシャ語形ではヤニスの発音のほうが近い。

イオニア諸島のケルキラ島(コルフ島)の貴族の家に生まれた。父方のカポディストリア家は、サヴォイア公から伯爵位を与えられた家柄で、姓は、現在のスロベニアの都市コペルの旧名にあたるカーポ・ディストリアに由来する。13世紀にコルフ島に移って、カトリックから正教に改宗し、完全にギリシャ化した。母は伯爵夫人で、その家系は、キプロスやクレタ島などを経てコルフ島に来た。貴族として育ったが、生涯を通じて自由主義的な思想家で、民主的な理想を持った。パドヴァ大学で医学と哲学を学び、1797年に21歳でケルキラ島で医師の見習いを始めた。1799年に島がロシアとオスマン帝国に占領されると、軍病院の責任者に任命された。1802年にはコルフに科学と社会進歩のための団体を創設している。

1801年にイオニア諸島がロシアとオスマン帝国の保護下でイオニア七島連邦国として独立すると、25歳で、父の代理として国務大臣になった。外国の干渉を排するには住民の連帯感を深める必要があり、軍隊を用いずに国内の騒乱を静めることに成功した。議会の投票で首相に任命された。1803年12月に民主化憲法が制定され、首相として国家組織を整え、教育に重点を置いた。長くヴェネツィアの支配下にあって、イタリア語が共通語だった諸島で、公用語をギリシャ語と定めた。しかし1807年のティルジット条約で、イオニア諸島はフランスへ譲渡されることになった。

1809年にロシア外務省の招きを受けて、アレクサンドル1世のもとで外交官として働いた。1813年にロシアの非公式の大使としてスイスに赴き、混乱していたスイスの安定化を模索した。彼の助けもあり、スイスは普通選挙により新憲法を制定し、19の州による連邦制をとることになった。1815年のウィーン会議では、ヨーロッパの勢力均衡を重視し、スイスを永世中立国として承認させることに成功した。その外交手腕により、アレクサンドル1世からロシアの外務大臣に任命された。1818年にイギリスの支配下に入ったイオニア諸島を訪れ、住民の独立の意思が強いことを知り、翌年ロンドンで善処を求めたが、拒否されている。

1821年にギリシャ独立戦争が始まった。独立勢力は内部対立を抱えていたが、1827年の国民会議で、対立に関与せず、列強とのつながりを持つ彼を大統領に選んだ。1828年にナフプリオに上陸した。ギリシャ本土に足を踏み入れたのはこれが初めてであった。国家体制の整備から始め、国軍を成立させ、伝染病対策の隔離施設を設置し、新貨幣を導入し、ジャガイモの栽培を奨励した。1830年2月のロンドン議定書でギリシャの完全独立が認められた。一方で、伝統的な地方の有力者の力を削ぎ、議会を廃止して自由主義を抑え込んだため、反発を受けた。1831年にマニ半島の有力貴族を反乱の疑いで投獄すると、その一族2人により、ナフプリオの教会で暗殺された。アテネ大学は彼の名を冠し、旧500ドラクマ紙幣と20ユーロセント硬貨にも肖像が描かれている。

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