HISTORICAL PERSON · 719年没

アナスタシオス2世

東ローマ帝国の皇帝。書記局長官として陰謀に加わりフィリピコスを幽閉して即位し、有能な人物を抜擢した。包囲に備え城壁を補修したが、715年に反乱で降伏し、のちレオーン3世への陰謀に失敗して処刑された。

生涯
719年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / コンスタンティノープル)
出生地
—
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

アナスタシオス2世は、東ローマ帝国の皇帝である。713年6月3日から715年まで在位した。生年は不明で、即位前の名はアルテミオス、あるいはフィラルテミオスとされる。皇帝になる以前の経歴は、ほとんど知られていない。わかっているのは、先帝フィリピコス・バルダネスの代に書記局の長官を務めていたことである。当時の帝国は、695年のヘラクレイオス朝の終わりから717年のイサウリア朝の始まりまで続いた混乱期にあり、皇帝が相次いで交代していた。ユスティニアノス2世が敵への復讐に走るなか、流刑地ケルソンで皇帝に推されたバルダネスが首都を奪い、フィリピコスの名で711年に即位したが、その治世も1年半に満たなかった。

即位の経緯については、二通りの説明がある。一つは、フィリピコスへの不満が高まるのを見て、他の高官らとともに陰謀を企て、フィリピコスを幽閉した翌日に聖ソフィア大聖堂で即位してアナスタシオスと改名したというものである。もう一つは、軍に倒されたフィリピコスの後継者として元老院に選ばれたというものである。助祭アガトンの短い記述は、この人物をフィラルテミオスと呼び、敬虔で正統信仰に篤いと評している。

治世の彼は賢明な人物で、有能な人材を多く抜擢したと伝わる。その中には、アナトリコン軍管区の長官で、のちに皇帝レオン3世となる人物もいた。ウマイヤ朝によるコンスタンティノポリス包囲が近いと見て、城壁を補修し、艦隊の軍備を増強した。宗教面でも、フィリピコスが破棄した第3コンスタンティノポリス公会議の決議を復活させ、混乱した宗教政策の沈静化に努めた。歴史家の評価は、先帝と比べて好意的である。ウォーレン・トレッドゴールドは、数年来で最も有能な皇帝だと述べ、ブルベイカーとハルドンは、有能で精力的な統治者と評している。

しかし715年、ウマイヤ朝の艦隊が小アジア南部に進出したため、オプシキオン軍管区の軍を派遣すると、その軍はロドス島で反乱を起こした。反乱軍は無名のテオドシオス3世を担いでコンスタンティノポリスに迫り、半年あまり内戦が続いたのち、皇帝は兵力が足りず降伏した。退位と引き換えにテッサロニキへの隠退が認められ、修道士になったとされる。

その後、イサウリア出身のレオンが、アナスタシオスの名のもとにテオドシオスに対して蜂起し、勝利したとされる。だがレオンは自ら帝位に就いてレオン3世となり、717年から718年のコンスタンティノポリス包囲を守り抜いた。アナスタシオスはなお帝位を諦めず、かつての部下たちや第一次ブルガリア帝国を誘って陰謀を企てた。だがレオン3世の権威は高まっており、同調する者は少なく、ブルガリアも味方しなかったため、計画は失敗した。その最期は、ブルガリアのテルヴェル王に捕らえられて処刑されたともいわれ、719年にレオン3世に捕らえられ、主な支持者とともに処刑されたともいわれる。いずれにせよ719年7月1日に没したとされ、その治世の事績は主に証聖者テオファネスの年代記によって伝えられている。ただし、この年代記は在位をわずか1年半とするなど誤りを含み、治世を扱う史料は乏しい。

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