伝記
レッドボット(ラッドボッド、レッドバッドとも表記する)は、680年頃から719年に没するまでフリースラントを治めた支配者である。生年は不詳。フリースラント・フランク戦争のなかで、フランク王国に支配される以前のフリースラントの独立を守った最後の王とされる。716年にはケルンの戦いでフランク王国の宮宰カール・マルテルを破ったが、その後カール・マルテルが巻き返すなかで世を去った。
称号は文献によって異なり、フランク人の文献では公、その他では王と呼ばれている。指導者を戴く体制が中世ヨーロッパの一般的な王権と異なっていたためで、異教文化のなかにあったフリース人と、キリスト教化していたフランク人との、王権に対する考えの違いとみることもできる。
前王のアルドギスルがキリスト教を受け入れたのに対し、レッドボットは異教を復活させてキリスト教を弾圧し、フリース人をメロヴィング朝フランク王国の支配から解放した。しかし689年、ドレスタットの戦いで宮宰ピピン2世に敗れ、スヘルデ川からフリー海峡までの西フリースラントを割譲した。690年から692年までの間には、フリースラントの中心地だったユトレヒトがピピン2世の手に落ち、ライン川から北海に至る重要な交易路がフランク人のものとなった。その後も敗北が続き、697年にヘルゴランド島、もしくは現在フリースラントと呼ばれる東方の地域へ退いたとされる。このころウィリブロルドによってフリースラントにキリスト教の教区が設けられ、711年には彼の仲介で、ピピン2世の息子グリモアルド2世とレッドボットの娘テウデシンダが結婚している。
714年にピピン2世が死去すると、レッドボットは戦争の主導権を取り返した。ウィリブロルドらキリスト教の聖職者は南方へ追放された。さらに、かつての敵だったフランク王キルペリク2世、ネウストリア宮宰ラガンフリドと同盟してアウストラシアに侵攻し、716年にケルンの戦いでピピン2世の後継者の一人カール・マルテルを破った。だが直後のアンブレーヴの戦いで敗れ、後にフランク王国への従属を余儀なくされた。719年にレッドボットは死去したが、後継者たちはフランク人への抵抗を続けた。晩年にも強大な勢力を保ち、軍勢を編成し始めたという報せだけでフランク王国が恐怖に覆われたといわれる。
改宗をめぐる伝承も残る。聖ボニファティウスの二度目のローマ行の間に、前サンス大司教のウルフラムがレッドボットの改宗を試みたが、成功せずにフォントネルへ戻ったとされる。レッドボットは洗礼を受ける直前まで行ったが、天国に行っても自分の先祖は誰もいないだろうと聞かされて改宗をやめたといわれる。伝承では、天国で物乞いの群れと過ごすより、地獄で異教の先祖とともに永遠を過ごすほうがよいと答えたという。この話はウルフラムをウィリブロルドに置き換えても語られている。10世紀初頭のユトレヒト司教ラドバウドはレッドボットの子孫とされ、その名はナイメーヘンのラドバウド大学に付けられている。ワーグナーのオペラ『ローエングリン』では、登場人物オルトルートの父として言及され、2018年にはロエル・レイネ監督によって史実に基づく映画も制作された。この映画は日本では劇場未公開で、DVDのみで発売された。ハリイ・ハリスンのSF小説『ハンマーと十字架』では、キリスト教の宣教と闘う異教教団の創設者として描かれている。
同じ年に亡くなった人物
- クロタール4世 (719年)
- 大祚栄 (719年没)
- アナスタシオス2世 (719年没)
- Theodbert of Bavaria (719年)
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