HISTORICAL PERSON · 1830年没

ジョージ4世 (イギリス王)

英国ハノーヴァー朝の国王。父の病により1811年から摂政王太子として統治し、ブランメルやナッシュを支援して摂政時代の流行に貢献した。

生涯
1830年没
死亡地
イギリス連邦(ウィンザー・アンド・メイデンヘッド / ウィンザー城)
出生地
イギリス連邦(セント・ジェームズ宮殿)
出典
世界地図
イギリス連邦(ウィンザー・アンド・メイデンヘッド)

伝記

ジョージ4世は、イギリス、ハノーヴァー朝の国王で、1820年1月29日から1830年6月26日の死まで在位した。ハノーファー王国の国王ゲオルク4世でもあった。1762年8月12日に生まれた。父ジョージ3世の精神疾患のため、1811年から即位するまで摂政王太子として統治した。妃はブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公の次女キャロラインである。

セント・ジェームズ宮殿で、ジョージ3世とシャーロット王妃の長男として生まれた。生まれてすぐコーンウォール公とロスシー公となり、数日後にはプリンス・オブ・ウェールズとなった。18歳のとき独立した邸宅を与えられたが、風流とは縁がなく、スキャンダルにも無縁だった父とは違い、浪費と放蕩の生活に身を投じ、大酒を飲んで、数多くの愛人を抱えた。1783年に21歳になると、議会から補助金6万ポンド、父から年金5万ポンドを与えられたが、足りなかった。カールトン・ハウスに住居を構えて放蕩の生活を送り、倹約を求めた父との間に敵意が生じ始めた。急進的な政治家フォックスらとつるんだことも、父の不興を買った。

21歳になって間もなく、彼は6歳年上の、2度未亡人になった、カトリックの平民フィッツハーバート夫人に夢中になった。1701年の王位継承法はカトリックの配偶者による王位継承を禁じ、国王の同意なしには結婚もできなかった。それでも1785年12月15日、メイフェアの邸宅で結婚式を挙げた。国王の同意がなかったため、結婚は法的には無効であったが、夫人は教会法を重んじ、自分を本当の妻と考えた。負債が山ほどでき、夫人の邸宅に住まざるを得なくなった。1787年に議会から補助金を得ようとした際に、二人の関係が疑われたが、フォックスは中傷だと宣言し、議会は債務返済に16万1千ポンドを与えた。

1788年夏、おそらく遺伝病のポルフィリン症により、ジョージ3世の精神状態が悪化した。議会は摂政についての議論を始め、フォックスは、国王が統治不能になれば王太子が自動的に主権を行使すると主張した。首相の小ピットは、議会のみが摂政を任命する権利を持つとし、王太子の権限を大きく制限する案を出した。法案が議決される前の1789年にジョージ3世が回復したため、摂政は実現しなかった。

負債は増え続け、1795年には63万ポンドに達した。父は、キャロラインと結婚しなければ援助しないとした。ジョージは不本意ながら同意し、1795年4月8日にセント・ジェームズ宮殿の礼拝堂で結婚した。結婚は大失敗で、二人はまったくそりが合わず、1796年に唯一の子シャーロットが生まれた後は正式に別居し、その状態が続いた。ジョージは、以後も生涯、フィッツハーバート夫人を愛し続けた。1804年にはジョージがキャロラインに庶子がいたと主張し、議会の委員会が調査したが、疑いは晴れた。

1810年末にジョージ3世が再び狂気に陥ると、議会は1788年の前例に従って摂政法を可決させ、1811年2月5日、ジョージは摂政王太子となった。政府の事務は内閣に任せきりで、政治への介入は父よりはるかに少なく、首相は庶民院の多数派の支持を受ける人でなければならないという原則が、慣例となった。この時期の重要な議題は、カトリックが公職につく際の制限を撤廃するカトリック解放であった。唯一の嫡出子シャーロット王女は1817年に先立って没し、王位を継いだのは弟のウィリアムであった。

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