伝記
フリードリヒ・シュレーゲルは、ドイツ初期ロマン派の思想家、文芸評論家、詩人、小説家である。本名はカール・ヴィルヘルム・フリードリヒ・フォン・シュレーゲルといい、1772年3月10日にハノーファーで生まれ、1829年1月12日にドレスデンで没した。ルター派の牧師ヨハン・アドルフと、数学教授の娘ヨハンナ・クリスティアーネの子で、7人きょうだいの末っ子である。伯父のヨハン・エリアスは詩人でシェイクスピア学者であり、一家には文化的な蓄えが大きかった。母とは親しかったが、父とは折り合いが悪かった。兄はのちに文学者、文献学者となるアウグスト・ヴィルヘルムで、二人はシュレーゲル兄弟として知られる。
父は息子に商人の道を望み、1788年からライプツィヒの銀行家のもとで見習いをしたが、気に入らずに中断し、イェーナ大学で法学を修めようとした。進学のために遅れを取り戻す必要があり、ギリシャ古典で大きな能力を示し、プラトンを原語で読みふけった。1790年、兄とゲッティンゲンへ行って法学を学び、兄からヘルダーやヴィンケルマン、カントを教えられた。翌年ライプツィヒに移り、ノヴァーリスと親交を結んだ。法学への関心は薄れ、ヘルダー、ダンテ、シェイクスピアなどの読書に没頭した。20歳でドレスデンに旅してシラーに会ったが、苦い思いをして、疑いの時期に入った。やがて詩の理論を考え始め、革命家ゲオルク・フォルスターの著作に感銘を受け、彼を古典的な作家の模範と見て、1797年に論文を書いた。1794年にはギリシア詩の流派についての初めての著作を出した。
1797年に『ギリシア人とローマ人』、翌年に『ギリシア人とローマ人における詩の歴史』を刊行した。1798年から1800年に雑誌『アテネーウム』を主宰し、エッセイや箴言を寄せ、そこで展開したイロニーの概念は初期思想の鍵となった。イェーナは初期ロマン派の拠点となり、文学界と哲学界の双方に影響した。1799年の小説『ルツィンデ』は、自由、愛、芸術の問題を告白的な文体で書き、スキャンダラスな内容が物議を醸して、詩人としての評価を下げた。妻ドロテーアは、啓蒙思想の哲学者モーゼス・メンデルスゾーンの娘である。1800年にイェーナ大学の私講師として『超越論的哲学』を講じた。1802年にパリへ行き、哲学と東洋思想を講義した。1804年からケルン大学で教えた。
1808年に『インド人の言語と英知』を出版して名声を不動のものとし、このころローマ・カトリック教会に入信した。理想とした中世カトリックの世界に身を委ねたい気持ちがあったとも言われる。サンスクリットに通じ、東洋思想にも理解を示す一方、セム語族をインド=ヨーロッパ語族より劣ると論じた。その後フランクフルトやウィーンに行き、宰相メッテルニヒに仕えて政治にも関わった。1820年に全集の編纂を始め、晩年はカトリックに深く帰依して、神秘主義的な思想に傾き、友人や兄との交際を絶った。1828年にドレスデンで『生の哲学』を講じ、翌年『歴史の哲学』を書いたが、同年に没した。没後は長く評価されず、のちに研究者によって見直された。
同じ年に亡くなった人物
- 松平定信 (1829年没)
- シカンダル・ジャー (1829年没)
- キットゥール・チェンナンマ (1829年没)
- アダム・アルベルト・フォン・ナイペルク (1829年没)
- エリザベス・フリーマン (解放奴隷) (1829年没)
同じ地域に関係する人物
- フリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯) (1763年没)
- アルトゥール・ニキシュ (1922年没)
- マリヌス・ファン・デア・ルッベ (1934年没)
- ヨハネス・ウィスリツェヌス (1902年没)
- ヴラジスラフ2世 (1174年没)