伝記
ジョージ・カニングは、1770年4月11日に生まれ、1827年8月8日に没したイギリスの政治家である。小ピットの子飼いとして政治の経歴を積み、外務大臣(1807年〜1809年、1822年〜1827年)として活躍し、最晩年の1827年4月から8月まで短期間、首相を務めた。トーリー党に所属しながらリベラルな政治家だった。
ロンドンのメリルボーンで生まれた。父はロンドンデリーの裕福な家の出だったが、勘当されて、ロンドンで貿易と文学を生業としていた。父は、カニングが生まれてちょうど1年後の1771年4月11日に病死し、幼い頃の生活は困窮した。母は夫の親族から援助を得られず、女優になって生活をしのいだ。母の劇団の同僚が困窮に同情して、ロンドンの商人である父方の叔父ストラトフォードに手紙を書き、叔父は家族に働きかけて、年200ポンドの収入のある地所を彼に与えた。このおかげで、1781年からイートン・カレッジで学び、1787年にオックスフォード大学クライスト・チャーチに進んで、1791年に学士、1794年に修士の学位を得た。オックスフォードでは古典の成績が優秀で、弁論クラブの創設にも関わり、雄弁家としても知られたが、急進的なジャコバン主義的傾向があったという。後援者の叔父がホイッグ党に所属したため、在学中にフォックスやシェリダンらホイッグの政治家と知り合い、この時期はホイッグ党に属したとされる。しかしフランス革命が過激化すると警戒を強め、バークらとともにトーリー党に移り、小ピットの支持者となった。
1793年6月に庶民院議員となり、1794年1月に初めて登院して、31日に処女演説をした。演説はサルデーニャ王への援助金についてで、話し方が速すぎ、声が大きく、身振りが劇的すぎて失敗だったが、演説者としては順調な滑り出しとなった。領地がほとんどなかったため、収入を得ようと小ピットに官職を求め、1796年1月に外務政務次官に就任した。1801年に小ピットが総辞職すると、カニングも従って下野し、1804年に小ピットが再び首相になると海軍財務長官に任じられた。1807年にポートランド公爵内閣の外務大臣に就任し、ナポレオンの支配下に入るのを阻止するため、デンマーク艦隊の拿捕で中心的な役割を果たし(コペンハーゲン砲撃)、ポルトガルの王室がブラジルへ逃れるのも手引きした。
半島戦争を熱烈に支持したため、陸軍大臣カースルレー子爵と管轄をめぐって対立した。増援がカースルレーの命でオランダ方面の遠征に向かってしまい、カニングは1809年4月に、カースルレーを他の官職に移さなければ辞職すると首相に訴えたが、決着は5か月先送りされた。9月7日にしびれを切らして辞任すると、事の始末を知って激怒したカースルレーが決闘を申し込み、9月21日に二人は決闘して、軽傷に終わった。この事件でカニングの評判は悪くなり、以後12年間、高位の官職に就けなかった。1814年から家族とリスボンや南仏に滞在し、1816年夏に帰国し、カースルレーと和解してインド庁長官として入閣したが、1821年1月に国王ジョージ4世の王妃への扱いに反発して辞職した。1822年、カースルレー(ロンドンデリー侯爵)の自殺を受けて、外務大臣兼庶民院院内総務に就任した。
前任者たちが支持したウィーン体制と神聖同盟から一線を画し、スペイン立憲革命への介入には不干渉を宣言し、ギリシャ独立を支援して、ラテンアメリカの独立運動を支持した。1824年12月31日には、アルゼンチン、メキシコ、グラン・コロンビアの独立承認を国王から引き出した。
同じ年に亡くなった人物
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