HISTORICAL PERSON · 723年没

太安万侶

奈良時代の貴族で『古事記』の撰者。元明天皇の命で稗田阿礼が誦習する帝紀・旧辞を筆録し、712年に献上した。民部卿従四位下に至り、1979年に奈良市で墓と墓誌が発見され、墓誌は後に国宝となった。

生涯
723年没
死亡地
日本(奈良県 / 奈良市)
出生地
—
出典
世界地図
日本(奈良県)

伝記

太安万侶(おおの やすまろ)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての日本の貴族である。名は安麻呂とも記され、姓は朝臣。官位は従四位下・民部卿に至り、のちに従三位を贈られた。日本最古の歴史書『古事記』の撰者として知られる。生年は明らかでない。小錦下・多品治の子とされるが、これは久安5年(1149年)謹上の「多神宮注進状」に拠る説である。壬申の乱に加わった多品治の子であった可能性も指摘されている。

官歴は文武朝から始まる。大宝4年(704年)正月、正六位下から二階昇進して従五位下に叙された。和銅4年(711年)4月には正五位上に昇った。同年9月、元明天皇は稗田阿礼が誦み習っていた『帝紀』『旧辞』を書き留め、史書として編纂するよう安万侶に命じた。仕事は翌和銅5年(712年)1月に『古事記』として天皇に献上された。元明朝末の和銅8年(715年)には従四位下に達している。

霊亀2年(716年)、太氏(多氏)の氏長となった。一族の末裔とみられる多人長は、安万侶が養老4年(720年)に完成した『日本書紀』の編纂にも加わったと主張している。元正朝末の養老7年(723年)7月6日に卒去し、最終の官位は民部卿従四位下であった。遺骨の調査から、享年は60歳ほどと推定されている。

『古事記』の序には、安万侶が勲五等の勲等を得ていたことが記される。勲等は武官としての功績で得るものと考えられるため、単なる文官とは位置づけられないという考察がある。黛弘道は、和銅2年(709年)の蝦夷征討に副将軍格で参加した可能性を推測し、神亀元年(724年)の蝦夷征討で副将軍を務めた大野東人が勲四等を得て従四位下に昇った例を参考に挙げる。鷺森浩幸は、多氏が五位までの昇進にとどまる家柄であったのに、一族で安万侶だけが四位に昇ったことに注目し、戦功による例外的な昇進だったとみる。

1979年(昭和54年)1月22日、奈良市此瀬町の茶畑で、土地所有者の竹西英夫がチャノキの改植作業中に安万侶の墓と墓誌を見つけた。橿原考古学研究所は同年1月25日から3月31日まで発掘調査を行い、火葬された骨や真珠を納めた木炭槨と木櫃を確認した。墓は奈良盆地の東に続く大和高原の北西端近く、東西に延びる丘の南斜面にあり、傾斜約30度の急な尾根の上に築かれていた。周囲の溝から墳丘を復元すると内径は4.5メートルになり、墓坑は東西1.9メートル、南北1.8メートルほどであった。墓坑のほぼ中央に木炭で覆った木棺が南北に据えられ、墓誌はその木棺の下に、文字のある面を下にして置かれていた。棺内からは火葬された人骨と灰のほか、真珠4顆、鉄片2点、漆喰片2点が出土している。墓誌は銅板で、銘文は2行41字である。左京四条四坊に住んだこと、位階と勲等が従四位下勲五等であったこと、癸亥年(養老7年)7月6日に没したことなどが刻まれていた。墓は1980年(昭和55年)2月19日に国の史跡に指定された。墓誌は1981年(昭和56年)に真珠4顆を附として重要文化財に指定され、橿原考古学研究所附属博物館で常設展示されている。2025年(令和7年)9月26日には、木櫃残欠を附に加えて国宝に指定された。また明治44年(1911年)3月13日、古事記撰上千二百年にあたり、特旨によって位階を追って進められ、従三位が贈られている。多坐弥志理都比古神社の境外摂社・小杜神社の祭神としても祀られる。

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