伝記
トーマス・ジェファーソンは、1743年4月2日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では4月13日)に生まれ、1826年7月4日に亡くなったアメリカ合衆国の政治家で、第3代大統領(1801年〜1809年)である。アメリカ独立宣言の起草者の一人で、共和制の理想を追い求めたことで、最も影響力のあった建国の父の一人とされる。バージニア植民地で、農園主で測量士のピーター・ジェファーソンと、ジェーン・ランドルフの息子として生まれた。両親ともバージニア入植者の古い家系の出で、10人兄弟の3番目であった。1752年にスコットランド人牧師の学校に通い始め、9歳でラテン語、古代ギリシア語、フランス語を学び始めた。1757年、14歳のときに父が死に、約5,000エーカーの領地と数十人の奴隷を相続した。そこに建てた家が、のちのモンティチェロである。
父の死後、1758年から1760年まで牧師ジェイムズ・モーリーの学校で古典や歴史、科学を学んだ。1760年、16歳でウィリアム・アンド・メアリー大学に入り、哲学科でウィリアム・スモール教授のもとで数学、形而上学、哲学を学んだ。教授は、ロック、ベーコン、ニュートンの著作を紹介し、ジェファーソンは彼らを「世界が生んだ中でも最も偉大な3人」と呼んだ。1日に15時間勉強することも多かった。1762年に優等賞を受けて卒業すると、法律を学び、1767年にバージニア法廷弁護士として認められた。1768年から1773年には、一般裁判所だけで毎年100件以上の訴訟を扱い、黒人の弁護活動にも熱心だった。
1768年に新古典様式の邸宅モンティチェロの建設を始めた。大きな借金をして、パッラーディオの建築を研究して造った。モンティチェロは奴隷プランテーションでもあり、70年間を通じて600人以上の奴隷を所有した。1769年からバージニア植民地議会議員となり、1774年に、耐え難き諸法に反対して『イギリス領アメリカの権利に関する要約』を書いた。植民地人には自らを治める自然の権利があるとする急進的なものだった。「王は人民の召使であり、主人ではない」と明言し、この小冊子はアメリカ独立の理論的枠組みに貢献して、彼は最も思慮深い愛国的代弁者として注目された。
1775年6月、第二次大陸会議のバージニア代議員となり、1776年6月、独立決議案に伴う宣言を準備する五人委員会の委員に指名された。ジョン・アダムズやベンジャミン・フランクリンを含む委員会は、筆が立つとの評判から、ジェファーソンを初稿の執筆者に選んだ。他の委員にも相談し、バージニア憲法の草案やジョージ・メイソンのバージニア権利章典などを引いて書き上げ、6月28日に大陸会議に提出された。7月2日に独立決議案が可決された後、議論で全文の4分の1近くが削除され、大西洋奴隷貿易を批判した部分も削られて、彼は不満だった。7月4日に独立宣言が承認された。その雄弁な前文は、後の人権宣言の規範になった。
独立宣言の後はバージニアに帰り、9月に邦議会議員となって、3年の間に長子相続制の廃止、信教の自由の確立、司法体系の合理化など126の法案を書いた。1779年から1781年までバージニア邦知事を務めた。後に初代国務長官(1789年〜1793年)、第2代副大統領(1797年〜1801年)も歴任した。大統領としてはルイジアナ買収(1803年)やルイス・クラーク探検隊を進め、強国との戦争を回避した。バージニア大学の創設者でもあり、2期を完全に務めた大統領の中で、議会の法案に一度も拒否権を発動しなかった唯一の人物である。
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