HISTORICAL PERSON · 1982年没

イングリッド・バーグマン

スウェーデン出身の女優。アカデミー賞を3回受賞し、アメリカでは『別離』で映画初出演して人気を得て、ハリウッドを代表する女優の一人となった。

生涯
1982年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
スウェーデン王国(Hedvig Eleonora parish)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

イングリッド・バーグマンは、1915年8月29日にスウェーデンのストックホルムで生まれた女優で、ヨーロッパとアメリカで活躍した。スウェーデンの王女イングリッドにちなんで名づけられた。父は芸術家でカメラマンだったユストス・ベリマン、母はドイツ人のフリーデル・アドラーである。3歳のときに母を、13歳のときに父を失った。父は生前、娘がオペラ歌手になることを望んだので、3年間声楽を学んだが、本人は最初から女優の道を夢見ていた。誰もいない父の写真スタジオで、亡き母のドレスをまとって一人芝居をすることもあった。父の死後は叔母に引き取られたが、この叔母も半年後に心臓の合併症で亡くなり、5人の子を持つ叔母フルダと叔父オットーの夫妻の家に身を寄せた。

17歳のときに、ストックホルムの王立ドラマ劇場の俳優になるためのオーディションを一度だけ受けることを許され、合格して国からの奨学金を受け、同劇場付属の演劇学校に入った。入学の数か月後に外部の戯曲に出演したが、これは学校の慣例に反する行為だった。1年後に映画女優に専念するため退学した。最初の出演作は1935年の『ムンクブローの伯爵』である。その後、主役を演じた1938年の『女の顔』など12本のスウェーデン映画と、ドイツ映画に出演した。

1939年、プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックに招かれ、スウェーデン映画『間奏曲』のリメイク『別離』に出演するため、5月6日にロサンゼルスに着いた。英語をろくに話せなかったので、アメリカで出演するのはこれが最初で最後で、すぐにスウェーデンに戻るつもりだったという。歯科医の夫と、1938年に生まれた一人娘は、スウェーデンで帰りを待っていた。セルズニックは、英語や背の高さ、ドイツ風の名前を懸念したが、彼女は外見も名前も変えずにアメリカの観客に受け入れられた。セルズニックは、厚化粧を施すメイクアップアーティストを恐れる彼女を「そっとしておくように」指示した。『別離』は大きな興行的成功を収め、彼女は一躍人気女優となり、監督は「まったく驚くべき」女優と評した。

1941年に『ジェキル博士とハイド氏』などに出演し、セルズニックは彼女を「今までともに仕事をしてきた中でもっとも完成された誠実な女優」と評して7年間の契約を提示した。1942年にはハンフリー・ボガートと共演した『カサブランカ』で、反ナチス地下組織の指導者の妻、イルザの役を演じた。この作品は代表作とみなされているが、本人は必ずしも満足しておらず、後にその魅力を認めて語るようにもなった。1943年の『誰が為に鐘は鳴る』でマリア役を演じ、初めてアカデミー主演女優賞にノミネートされた。原作者のヘミングウェイは、この役をバーグマン以外に演じられないと言い切ったという。1944年の『ガス燈』で、初めて同賞を受賞した。

1950年、イタリアのロベルト・ロッセリーニ監督の『ストロンボリ』に主演し、これがきっかけで、互いに既婚者であったにもかかわらず不倫関係となった。その後の結婚は大きなスキャンダルとなり、バーグマンは数年間アメリカに戻れなくなった。1956年の『追想』でハリウッドに復帰して、再びアカデミー主演女優賞を受賞し、旧来のファンも彼女を許したといわれる。アカデミー賞を3回、エミー賞を2回受賞し、トニー賞の演劇主演女優賞も受けた。1982年8月29日に死去した。

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