伝記
キルデリク2世は、メロヴィング朝のフランク王である。653年ごろ、または655年ごろに生まれ、675年に没した。クローヴィス2世の次男で、母は聖女の名で知られる王妃バティルド(バルト)であり、兄にクロタール3世がいた。祖父はダゴベルト1世、祖母は王妃ナンティルドにあたる。
兄のクロタール3世は661年から単独の王となったが、翌662年にアウストラシアをキルデリクに与えたとされる。キルデリクはまだ幼い子どもで、戦士たちに盾の上へ担ぎ上げられて王に推戴されたという。アウストラシア王シギベルト3世の娘ビリキルディス(ビリキルド)と結婚したが、彼女はいとこにあたる。この間の政務は、顧問であった宮宰ウルフォアルドが執ったとされる。夫妻の間には、ダゴベルトとのちのキルペリク2世という二人の息子が生まれた。
673年、兄クロタール3世が没すると、末弟のテウデリク3世が兄の王国を継いだ。しかしレオデガリウス(レジェ)やアダルリクらブルグント貴族の一派が、テウデリクと宮宰エブロインに背き、キルデリクをネウストリアとブルグントの王に迎えようとした。キルデリクはほどなく弟の王国に侵攻してテウデリクを退け、フランク全土の単独の王となった。テウデリクは、彼を排除した者たちから守るためにサン・ドニ修道院に入れられたといわれる。キルデリクは、アウストラシアの宮宰ウルフォアルドをネウストリアとブルグントの宮宰も兼ねさせたが、これは自分の王国以外で役人が働くことを望まないブルグントの支持者たちの不満を招いた。675年3月には、アルザスの統治権をアダルリクに与えて公の称号を授けている。ブルグントとアウストラシアはしばしばアルザスの領有を争っており、この授与はアダルリクが引き続き王を支持したことへの報いだったと考えられている。
王はオータン司教レジェを精神的な助言者としていたが、674年、司教は王がいとこのビリキルディスと結婚したことに反対し、王を厳しく批判した。怒った王は、レジェをリュクスイユ修道院に幽閉した。王は気前がよい一方で激しやすい性格で、大貴族たちの間で一致した支持を得ていたわけではなかったという。
決定的な事件となったのは、ボディロンというフランク貴族に対して、王が違法な体罰を加えたことである。ボディロンは杭に縛られて打たれたとされる。675年、ボディロンは仲間のインゴベルトやアマルベルトとともに謀議を重ね、王が狩りに出た機会に襲った。王は身重だった王妃ビリキルディスと、息子のダゴベルトとともに殺された。事件の場所は、ルーアン近くの森とも、パリ東方ブリ地方のロニュの森ともいわれ、ダゴベルトの年齢も5歳とも7歳ともされる。その場にいなかった年下の息子キルペリクは難を逃れ、のちに修道院で育った。報せを聞いた顧問たちはウルフォアルドを先頭にアウストラシアへ逃れ、王に子はなく、王位はテウデリク3世が継いだ。王と王妃、息子はパリ近郊のサン・ジェルマン・デ・プレ教会に葬られた。同教会の内陣には、ゴシック様式の横臥像が王族の墓の位置を示していた。墓は1645年と1646年の内陣の工事で見つかり、1656年の工事では像と石棺が移され、荒らされた墓があることも確認された。副葬品は持ち去られたという。このとき豪華な男性用の副葬品をもつ石棺から王の名を刻んだ銘が見つかり、これが王の墓と見なされた。
同じ年に亡くなった人物
- サアド・イブン・アビー・ワッカース (675年(推定))
- アブドゥッラフマーン・ブン・アビー・バクル (675年)
- Felix of Aquitaine (675年)
- ウルフヘレ (マーシア王) (675年没)
同じ地域に関係する人物
- カロリーヌ・ジベール (1879年没)
- セルジュ・チェリビダッケ (1996年没)
- モーリス・パポン (2007年没)
- ジャン1世 (ブルゴーニュ公) (1419年没)
- マリー・ド・ヴァロワ (カラブリア公妃) (1331年没)