伝記
ジャン1世は、1371年5月28日に生まれ、1419年9月10日に没した、ヴァロワ=ブルゴーニュ家の第2代ブルゴーニュ公である。在位は1404年から1419年まで。「無怖公」と呼ばれる。父はフィリップ豪胆公、母はフランドル女伯マルグリット3世で、その長男としてフランドルで育った。1385年に、下バイエルン=シュトラウビング公・エノー伯アルブレヒト1世の娘マルグリット・ド・バヴィエールと結婚した。同時にマルグリットの弟ヴィルヘルムと、ジャンの妹マルグリットも結婚した(カンブレーの二重結婚)。これによりヴァロワ=ブルゴーニュ家は北方へ進出する足がかりを得た。1396年にはハンガリー王ジギスムントの率いる対オスマン帝国の十字軍に加わり、ニコポリスの戦いの大敗で捕虜となったが、父が20万フローリンの身代金を払って釈放された。その勇猛さから「怖れ知らず」と渾名されたという。
1404年4月27日に父が亡くなり、ジャンは従弟で国王シャルル6世の唯一の弟であるオルレアン公ルイとの対立を深めた。1405年3月に母が急逝すると、国王に臣従の礼を捧げるためパリを訪れる機会が生じた。この年の6月、カレーを包囲したがフランス政府が援助を断ったのを機に、ジャンは5000人の兵を率いてパリに向かった。王妃イザボーとオルレアン公は国王をパリに残して逃れたが、ジャンの配下が王太子夫妻に追いつき、パリへ連れ戻した。ジャンは政府の攻撃と改革を旗印にパリ市民を味方につけ、軍を動かして圧力をかける手法を用いるようになった。同年10月16日にジャンとオルレアン公は和解し、軍勢を解散した。
1407年11月23日、ブルゴーニュ派はオルレアン公ルイを暗殺した。ジャンは、伯父のベリー公に「悪魔にそそのかされて、この人殺しをさせてしまった」と打ち明け、フランドルへ出奔した。翌1408年2月末、群衆の歓呼に迎えられてパリへ戻り、3月には公開の弁論でオルレアン公の殺害を礼賛させ、シャルル6世の赦免を得た。同じ1408年7月にはリエージュ市民の反乱を鎮め、1409年にはオルレアン公の息子シャルルと和睦して、王太子の後見人となり、政府の実権を握った。しかし1410年にアルマニャック派が結成され、1411年7月に武力衝突となった。ジャンはイングランドの支援を取り付け、同年10月にパリを奪ったが、1413年にパリで起きた暴動の統制に失敗し、フランドルへ退いた。1415年にイングランド王ヘンリー5世がフランスへ侵攻し、10月25日のアジャンクールの戦いでアルマニャック派のフランス軍が大敗すると、ジャンは自領の防衛にとどまった。1416年10月にヘンリー5世と会い、フランス王位継承権を認めて極秘の援助を約束した。1417年11月にはパリを退いたイザボーを保護し、トロワに政権を立てた。1418年にブルゴーニュ派の軍がパリに入った。
1419年、シャルル王太子と、イングランドに共闘するための和解の交渉を行った。その席で、12年前のオルレアン公暗殺への復讐として、王太子の側近に暗殺された。跡を継いだ長男フィリップ3世(善良公)はイングランドと同盟を結び、シャルル王太子と敵対した。ジャンはフランスでの地盤の確保には失敗したが、ネーデルラントでは、リエージュの反乱を鎮めたのを機に介入を深め、甥のジャン4世と姪のジャクリーヌを結婚させ、エノー・ホラント・ゼーラントの継承権を握った。妻マルグリットとのあいだに1男7女をもうけた。
同じ年に亡くなった人物
- John Dominici (1419年)
- エーバーハルト4世 (1419年)
- 定宗 (朝鮮王) (1419年没)
- イマードゥッディーン・ナシミ (1419年没)
- アルブレヒト3世 (ザクセン選帝侯) (1419年没)
同じ地域に関係する人物
- シモン・アルノー・ド・ポンポンヌ (1699年没)
- ギュスタヴ・ガリグー (1963年没)
- ルイ・ルノー (法学者) (1918年没)
- マルセル・ドゥティエンヌ (2019年没)
- ルイ2世 (コンデ公) (1686年没)