伝記
武烈王は、603年に生まれ661年に没した新羅の第29代の王である。在位は654年から661年。姓は金、諱は春秋で、廟号は太宗という。唐と結んで百済を滅ぼし、のちの三国統一の道を開いた王として知られる。
父は第25代真智王の子である伊飡の金龍春、母は第26代真平王の長女(もしくは次女)の天明公主とされる。実父は金龍春の兄の金龍樹だともいう。『旧唐書』『新唐書』には真徳女王の弟と記されるが、『三国史記』の分注はこれを誤りと指摘している。真智王の系統は王位を追われたが、母が聖骨の王女であったため、春秋も聖骨の身分を得て王位継承の資格を持ったとされる。叔母の善徳女王の死後は、聖骨で最後の真徳女王が立てられ、その没後には上大等の閼川が有力視されたが、金庾信が春秋を支持し、閼川も辞退して春秋を支えたため、春秋が即位したという。
春秋の妻は、はじめ宝羅宮主で、長男を産んだのち産褥で亡くなった。のちの王妃文明王后(文姫)は金庾信の妹である。伝えられる逸話では、庾信は打毬の最中に春秋の衣の紐をわざと引きちぎり、縫わせるために妹を引き合わせた。二人は恋に落ち、文姫は身ごもった。庾信が妹を焼き殺すといううわさを広め、善徳女王が南山に登った際に庾信の家から煙が上がるのを見て事情を知り、春秋に文姫との結婚を命じた。二人の子が後の文武王である。庾信の姉妹の宝姫も後宮に入った。
新羅は、唐の遠征を退けて勢いづく高句麗と、伽耶地方を取り戻した百済に圧迫されて疲弊していた。そこで春秋は高句麗と日本に遣わされたが、成果は得られなかった。日本には647年、遣新羅使の高向玄理に伴われて人質の身分で渡り、しばらく滞在している。648年に唐へ派遣されると、高句麗と対立する太宗の厚遇を受けて特進の位を与えられ、唐と新羅の同盟が成った。翌年、春秋は恭順の証として子の金文王を唐に残して帰国し、650年からは新羅独自の年号をやめて唐の元号を用いた。654年に即位すると、唐から開府儀同三司・新羅王に封じられ、楽浪郡王も増封された。同年、理法府に律令を調べさせて理法府格60余条を定め、唐風の律令制の基盤を整えた。官位の低い貴族も能力で要職に就け、文忠を執事部の長官である中侍に任じて、旧来の上大等の制度と競わせ、王権の強化に努めた。658年には文忠を2等官に引き立て、中侍には王子の金文王を任じた。660年1月に上大等の金剛が死ぬと、後任には金庾信を充てた。
655年には高句麗・靺鞨・百済の連合軍に北部の33城を奪われ、唐に救援を求めた。659年にも百済が国境を侵し、唐に出兵を求めた。唐の高宗とは、高宗が帝位に就く前から友人であったともいう。660年3月、唐は水陸13万の兵を百済に送り、春秋も唐軍の総管として5万の兵でこれを迎え、百済の義慈王を降して滅ぼした。11月に凱旋して論功行賞を行い、地方豪族や投降した旧百済の官人を重く評価して、王が直接支配できる軍事力の拡大を図った。661年、唐の高句麗出兵に参加し、軍を北上させる途中で病に倒れ、6月に陣中で亡くなった。慶州の永敬寺の北に葬られ、武烈王の諡と太宗の廟号が贈られた。唐の高宗は死を悼み、洛陽の城門で葬儀を行った。陵は慶州市にあり、その陵碑は韓国の国宝第25号である。後の恵恭王の時代に新羅の祖廟を定めた際には、味鄒尼師今、武烈王、文武王の三者が代々不変の宗とされたという。
同じ年に亡くなった人物
- Fakhitah bint Abi Talib (661年)
- Tamim al-Dari (661年(推定))
- イブン・ムルジャム (661年)
- ラビード (661年没)
- アリペルト1世 (661年)