伝記
デルヴァンは、615年から636年ごろにかけて活動したとされる初期スラヴ人の首長で、現在のソルブ人の祖先にあたるポラーブ系スラヴの部族、ソルブ人を率いた。史料に名が記されたソルブ人最初の支配者である。
7世紀のフランク人の年代記『フレデガリウス年代記』に、スラヴ人の出で、ソルブ人の公と記されている。年代記によれば、デルヴァンははじめ長いあいだフランク王に従属していた。トゥーリンゲン人を通じてフランク王に従っていたともされる。その後、サモが率いるスラヴ諸部族の連合に加わった。631年か632年、フランク王ダゴベルト1世(在位623年-634年)がヴォガスティスブルクの近くでサモの連合に敗れると、デルヴァンはフランクからの独立を宣言し、自らと自分の民をサモの支配下に置いた。
以後、デルヴァンはサモのフランクとの戦いに加わった。631年から634年にかけては、トゥーリンゲン公ラドゥルフが治めるトゥーリンゲン人と、スラヴ人が戦っている。631年か632年からソルブ人などのスラヴ人はトゥーリンゲンをたびたび襲い、ほかのフランク領も荒らしたかもしれないという。年代記の別の記述からは、デルヴァンと彼の部族がザーレ川の東に住んでいたことがうかがえる。631年か632年のデルヴァンへの言及は、エルツ山地より北にスラヴ人がいたことを示す最初の文字記録でもある。トゥーリンゲン公ラドゥルフとの戦いののち、デルヴァンは636年に敗れたとも伝えられる。
デルヴァンをめぐっては、バルカンのセルビア人との結びつきも論じられてきた。白セルビアをソルブ人の地とする従来の見方に立つ歴史家は、デルヴァンを、東ローマ皇帝コンスタンティノス7世の『帝国統治論』に名の記されない7世紀のセルビア人の指導者の親族とみなす。この指導者はセルビア人のバルカン移住を率いたと語られる人物で、デルヴァンはその兄弟だとする説のほか、父だとする見方もあるが、後者の可能性は低いとされる。ティボル・ジヴコヴィチによれば、セルビア人のバルカン移住は、デルヴァンがサモに加わる前の629年から632年のあいだに起きたのかもしれない。この移住がソルブ人の政治的まとまりを揺り動かし、サモと組んでフランクに対抗する動きにつながったと論じる者もいる。
同じ年に亡くなった人物
- サアド・ブン・ウバーダ (636年没)
- クウィチェルム (ウェセックス王) (636年没)
- ホスロー4世 (636年没)
- ロスタム・ファルロフザード (636年没)
- Sisenand (636年)
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