伝記
長孫皇后は、唐の太宗李世民の皇后であり、高宗の母である。小字は観音婢といい、本貫は河南郡洛陽県とされる。隋の右驍衛将軍長孫晟と継室の高氏の娘として生まれ、唐の名臣長孫無忌を兄に持つ。中国史上でもっとも名高い賢后の一人として知られている。大業5年(609年)に父の長孫晟が世を去ると、異母兄の長孫安業によって母とともに家を追い出され、母方の伯父である高士廉を頼った。大業9年(613年)、13歳で唐国公李淵の次男である李世民の妻となった。武徳元年(618年)に唐が建てられると秦王妃に立てられ、武徳9年(626年)に玄武門の変を経て皇太子妃となり、李世民が即位すると皇后に冊立された。太宗とのあいだには李治をはじめ三男四女をもうけた。子には皇太子の李承乾、魏王の李泰、のちの高宗となる李治、長楽公主、城陽公主、晋陽公主、新城公主がいる。
皇后は礼法を尊び、いにしえの善悪を鑑として自らを律したとされる。生活は質素で、華美な衣服を好まなかったという。ほかの妃嬪が難産で亡くなったときには、生まれた豫章公主を我が子のように養育した。太宗が政治のことを尋ねても、「雌鶏が夜明けを告げると、家は窮乏します」と言って、なかなか答えようとしなかった。兄の長孫無忌が唐朝で重用されることには、漢の呂氏や霍氏の前例を持ち出して反対した。一方、異母兄の長孫安業が李孝常の乱に連座して処刑されようとしたときには、叩頭して助命を嘆願した。かつて自分を追い出した兄であっても、皇后の権勢で恨みを晴らしたと見られることを避けたのだという。
諫言にまつわる逸話も多い。太宗が愛した駿馬が急死し、飼育係を斬ろうとしたとき、皇后は斉の景公と晏子の故事を引いて諫め、怒りを収めさせた。太宗は房玄齢に、皇后の助言は非常に有益だと語ったという。また太宗が朝廷から戻り、魏徴に人前で辱められたと怒って斬ると言い出したときには、皇后は礼服に着替えて殿中で跪拝し、主君が聖明であればこそ臣下は直言できるのだと述べて祝いを申し上げた。太宗は大いに喜び、いっそう魏徴を重んじたとされる。無実の宮人を帝が叱責したときには、皇后も怒ったふりをして自ら審理を申し出、いったん拘束したうえで帝の怒りが収まるのを待ち、少しずつ事情を説明して弁護した。これにより後宮では誤った刑罰が行われなくなったという。
皇后には呼吸器の持病があった。貞観8年(634年)に九成宮へ行幸した際、柴紹らが夜中に急変を奏上すると、側近の制止も聞かず病身で皇帝に従い、これが原因で病はいっそう重くなったという。貞観10年(636年)、36歳で世を去り、昭陵に陪葬された。諡号は文徳聖皇后である。危篤のとき、自宅に帰されていた房玄齢の身を案じ、重大な過失がないかぎり見捨てないでほしいと太宗に訴えた。死後、太宗は新たに皇后を立てず、その陵墓をいつも眺めていたといわれる。高宗は皇太子のとき、母の冥福を祈って大慈恩寺を建立し、のちに玄奘が初代住職を務めた。著書の『女則』10篇は散逸し、七言詩の『春游曲』一首だけが残る。『旧唐書』は、その徳を韋后や武后との対比で称えている。
太宗が病んだときには何か月も昼夜そばを離れず、衣帯に毒薬を結んで、万一のときは一人だけ生き永らえはしないと誓っていたという。自らの重篤の際にはそれを取り出して太宗に見せ、呂后のような地位に身を置くつもりはないと告げた。後世には張居正が、太宗は外に忠臣を擁し内に賢后を有したと述べ、唐仲友は太宗が「内助の良き補佐役」と称えたのはまことにその通りだと評している。