伝記
アレクサンドル・ヴァシリエヴィチ・スヴォーロフは、ロシア帝国の軍人で、ルムニク伯、イタリア公の爵位を持つ。ロシア帝国で3人目にして最後の大元帥であり、軍事史上でも稀な不敗の指揮官として知られる。1729年11月24日(ユリウス暦11月13日)にモスクワで貴族の家に生まれた。1730年生まれとする説もある。父ヴァシリはピョートル1世に仕えた将軍で、母アヴドーチヤは、同じくピョートル1世に仕えてオリョール総督を務めたアルメニア系貴族マヌコフの娘であった。1742年に軍に入り、ロシア・スウェーデン戦争に従軍した。1748年に伍長となり、1749年に士官学校に入って、1751年に卒業するとソコーニン少将の副官となった。1756年に大尉となり、同年に始まった七年戦争に従軍し、1759年8月12日のクーネルスドルフの戦いにも加わった。終戦の1762年までに大佐に昇進し、連隊を指揮した。
1768年、バール連盟がロシアとポーランド王に対して蜂起すると、3個連隊を率いてポーランドへ侵攻した。1769年夏にはわずか12日で500キロを踏破してワルシャワを制圧し、1771年9月23日には直属の兵822名で3000から4000名の連盟軍を破った。1772年4月26日にクラクフを占領して連盟を降伏させ、結果として第一回ポーランド分割が行われ、少将に昇進した。続いて第一次露土戦争に派遣され、1773年6月28日にドナウ川近郊のオスマン軍の野営地を奇襲して勝利し、1774年6月19日には8000名の軍で4万のオスマン軍を撃破した。これが決定打となり、6月21日にキュチュク・カイナルジ条約が結ばれた。さらにプガチョフの乱の鎮圧に派遣され、1774年8月30日に指揮を引き継ぎ、9月14日までに反乱軍を破って首謀者を捕縛した。
1787年に第二次露土戦争が始まると、ドニエプル河口を守り、10月17日にキンブルン要塞への攻撃を撃退したが、負傷した。1788年8月からオチャーコフ要塞を包囲し、1789年2月に陥落させたが、首も負傷した。1789年8月にはフォクシャニで、9月にはルムニク・サラトで、ヨーゼフ2世も戦場にいた連合軍の指揮を執ってオスマン軍を破り、エカチェリーナ2世からルムニク伯の爵位を受けた。1790年12月21日にイスマイル要塞を落とし、活躍したクトゥーゾフの功績を報告した。しかし総司令官ポチョムキンとは戦略をめぐって対立し、1791年4月に突然スウェーデン国境の軍の司令官に左遷された。ポチョムキンの死後の1792年12月にウクライナ軍司令官となり、1794年のコシチュシュコの蜂起では、9月に急派されて軍を立て直し、10月にコシチュシュコを捕らえ、11月4日にワルシャワを陥落させた。「万歳。ワルシャワ。スヴォーロフ」という3語の報告が有名で、女帝は元帥への昇進を返した。
1796年にパーヴェル1世が即位すると解任されたが、1799年2月に呼び戻され、フランス革命戦争のイタリア方面でロシア軍最高司令官となった。同年4月にイタリアに到着し、ミラノやトリノを制圧し、アッダ川沿いや6月の戦いでフランス軍を破り、8月15日の戦いでは司令官ジュベールを戦死させて、ジェノヴァを除く北イタリアを連合軍の手に収めた。サルデーニャ王からはサヴォイア大公の爵位を授けられた。9月にスイスへ向かい、悪魔の橋を越え、退路を断たれた10月、困難な冬のアルプス越えを決断して脱出に成功した。1800年5月18日(ユリウス暦5月6日)に没した。
同じ年に亡くなった人物
- サラヴァト・ユラーエフ (1800年没)
- カルロ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア=カリニャーノ (1800年没)
- ヴィクトル・ルイ (1800年)
- ザーロモン・マイモン (1800年没)
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同じ地域に関係する人物
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- パーヴェル1世 (ロシア皇帝) (1801年没)
- フョードル・チュッチェフ (1873年没)
- セルゲイ・ネチャーエフ (1882年没)