伝記
パーヴェル1世は、1754年10月1日(ユリウス暦9月20日)に生まれ、1801年3月23日(ユリウス暦3月11日)に没したロマノフ朝第9代のロシア皇帝(在位1796年11月17日〜1801年3月23日)である。母エカチェリーナ2世の崩御を受けて即位し、母帝の政治を全否定する路線をとったため、次第に廷臣の離反を生み、ついにクーデターで暗殺された。暴君、暗君の悪名が絶えない皇帝だが、暗殺という非業の死を遂げたため、彼の治世や人物への悪評はもっぱら反対派によって綴られたものだという点に、注意が必要である。
サンクトペテルブルクで、皇太子ピョートル(のちのピョートル3世)と皇太子妃エカテリーナ(のちのエカチェリーナ2世)の第1皇子として生まれた。ただし、実の父は皇太子ではなく、母の愛人セルゲイ・サルトゥイコフ伯爵だという説があり、母自身が回想録でそれを強くほのめかしている。幼児期に母から引き離され、エリザヴェータ女帝のもとで育てられた。1760年にニキータ・パーニン伯爵が教育係に任命された。女帝は彼を溺愛したが、無分別な少年に育ったとされる一方、少年時代のパーヴェルは知的で容貌が美しいとも報告されている。1771年にチフスにかかり、容貌が変わって、粗暴で猜疑心の強い性格が形成されたといわれる。母エカチェリーナ2世は、産後すぐに手元から引き離された彼に、世間一般のような愛情を感じなかった。イギリスの使節は、1764年に、母が彼を憎み、再び宮廷クーデターを起こす危険がなければ殺害しただろうと報告した。
1773年に、ヘッセン=ダルムシュタット方伯の娘ヴィルヘルミーナ(ナターリア・アレクセーエヴナと改名)を皇太子妃に迎えた。彼女が1776年に産褥で死ぬと、ヴュルテンベルクからゾフィア・ドロテア(マリア・フョードロヴナと改名)を迎えて再婚し、夫妻には10人の皇子女が生まれた。パーヴェルは、自分が母に暗殺されるのではないかと疑心暗鬼に陥り、自分の皿に割れたガラスが混ざっていると訴えたこともあった。一方で権力の奪取を目指して陰謀をめぐらし始めたため、母は、パーニンを引退させ、各参事会への出席を取りやめさせて、政治の場から遠ざけた。やがて1777年に息子アレクサンドルが生まれると、母は懐柔策としてパヴロフスクの領地を与え、1783年にはガッチナを与えて、自らの宮廷を持たせた。プロイセン風の軍隊の閲兵に熱中したが、母はこれを嫌った。母は彼を廃嫡し、孫アレクサンドルを次代の皇帝にと望むようになったとされる。
1796年11月5日、母が脳卒中の発作で意識を失い、危篤の報を受けた彼はガッチナから冬宮に向かった。母は翌日、意識を回復しないまま崩御し、彼が即位した。母帝にシベリアへ流刑にされていたラジーシチェフらを釈放し、ポーランドのコシチュシュコにも金を与えてアメリカに亡命させた。戴冠式が行われた1797年4月5日には、帝位継承法を定めて男系男子による継承を確定し、女性が帝位に就くことを禁じた。同日、農奴制を緩和する宣言を発布し、地主のための労働を週3日に制限し、日曜日の労働を禁じた。外交では、1798年に第二次対仏大同盟に参加してフランスと敵対し、1801年にはナポレオンに感銘を受けて、第二次武装中立同盟に加わりイギリスと敵対した。1801年3月11日(ユリウス暦)、ベニグセンらに率いられた罷免された士官たちが、ミハイロフスキー城の寝室に乱入して彼を暗殺した。城内にいた息子アレクサンドルの即位が宣言され、アレクサンドルはそれを受け入れた。
同じ年に亡くなった人物
- アントワーヌ・リヴァロル (1801年)
- ハンフリー・マーシャル (植物学者) (1801年没)
- デオダ・ドゥ・ドロミュー (1801年没)
- マリア・ホセファ・デ・ボルボン (1801年没)
- ヨハン・カスパー・ラヴァーター (1801年没)
同じ地域に関係する人物
- オシプ・コズロフスキー (1831年没)
- ファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼン (1852年没)
- タマラ・スミルノワ (2001年没)
- ガヴリイル・ポポーフ (1972年没)
- フョードル・ドストエフスキー (1881年没)