HISTORICAL PERSON · 1794年没

アンドレ・シェニエ

フランス革命期の詩人。ロマン主義文学の先駆者のひとりとされ、イスタンブールに外交官の三男として生まれ、田園詩やエレジーを書いた。恐怖政治が終わる3日前に「国家反逆罪」で断頭台に送られた。

生涯
1794年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
トルコ共和国(イスタンブール)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

アンドレ・マリ・シェニエは、1762年10月30日にイスタンブールのガラタ地区で生まれ、1794年7月25日に没したフランスの詩人である。官能的で情感豊かな詩によって、ロマン主義文学運動の先駆者の一人に位置づけられる。恐怖政治が終わるわずか3日前に「国家反逆罪」を宣告されて断頭台に消えたため、その活動は唐突に幕を閉じた。弟マリ=ジョゼフは文人・政治家である。

父ルイ・シェニエはラングドックの出身で、レバント方面で20年にわたり織物商として働いたのち、イスタンブールでフランス大使に相当する地位に就いた。母エリザベト・サンティ=ロマカはギリシャ系で、歴史家・政治家アドルフ・ティエールの祖母と姉妹であった。アンドレは外交官の三男として生まれた。3歳のとき、一家はフランスに戻った。父は1768年から1775年までモロッコでフランス領事を務めたが、家族はその間フランスにとどまった。アンドレは数年間、カルカッソンヌの叔母のもとで自由奔放に育ち、のちにパリのナヴァール学寮で古典文学の詩の翻訳家として名を挙げた。1783年にストラスブールの連隊の士官候補生名簿に載ったが、この新たな経験はまもなくついえた。年末までにパリに戻り、母のサロンに足繁く通う洗練された社交界の常連、とくにラヴォワジエや、少し後にはダヴィッドらと交際した。

このころには詩人になると決めており、当時の新古典主義に加わろうとしていた。1784年にローマやナポリ、ポンペイを訪れたことが強い刺激になった。約3年間、家族の干渉を受けずに詩作を研究し、テオクリトスやビオーン、古代ギリシャの詞華集を手本に、田園詩や牧歌を数多く書いた。古代神話と、個人の感情や精神の感覚を融合させたのが、その特色である。教訓詩や哲学詩にも挑み、1783年に着手した『ヘルメス』は、ルクレティウスにならって、ディドロの『百科全書』を凝縮した長編詩にしようとするものだったが、現存するのは断片だけである。

1787年、一家の友人ラ・リュゼルヌが駐英フランス大使に任じられると、その秘書に指名されて3年間をロンドンで過ごした。この生活は必ずしも幸福でなく、ミルトンやトムソンに関心を示し、自作にシェイクスピアやグレイの影響が見られるとはいえ、英文学を深く学んだとはいえない。1789年の革命と、弟の政治劇作家としての成功に刺激されて、1790年にパリの両親のもとに帰った。立憲君主制を信じ、革命はすでに成ったのであとは法の支配を待つだけだと考えた。穏健な牧歌を捨て、「フランス人民の間で」を書き、ダヴィッドにあてた「球戯場の誓い」がそれに続いた。フイヤン派に属して新聞に寄稿したが、1792年8月10日の蜂起で一派は根こぎにされ、友人や親戚とノルマンディーへ逃れた。弟が反王権派の国民公会に入ると、これに怒ってルイ16世を擁護する論陣に加わった。

王が処刑されたあとはヴェルサイユに1年ほど隠棲した。1793年7月にマラーが暗殺されたとき、頌歌に「悪党が一人減った」と書き、一方でシャルロット・コルデーに捧げる歌を作った。1794年3月7日、貴族を探していた公安委員会の密偵に見つかって逮捕され、サン・ラザール拘置所に140日間幽閉された。獄中でも風刺詩を書き続けたが、ロベスピエールは、自分を風刺する詩をシェニエが書いたことを覚えていて、処刑したという。その3日後、テルミドール反動でロベスピエールが処刑された。生前に刊行されたのは「球戯場の誓い」と『スイス人讃歌』だけで、名声は没後に少しずつ掘り起こされた作品による。

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