伝記
クロード・シモンは、1913年10月10日、当時フランス領だったマダガスカルのアンタナナリボに生まれたフランスの作家である。両親ともフランス人で、軍人だった父は第一次世界大戦の初めに、ヴェルダン近くで戦死した。母の家系は、国民公会の議員を務めた将軍の子孫だったという。母子は1914年からピレネー=オリアンタル県のペルピニャンで暮らし、1924年にはその町のリセで中等教育を始めたが、母も、癌のため、彼が11歳のときに亡くなった。その後は母方の祖母と叔父が育て、パリの名門スタニスラス校で寄宿生活を送った。1931年に大学入学資格を得た後は、オックスフォード大学とケンブリッジ大学に短期間通い、画家で彫刻家のアンドレ・ロートの画塾で絵を学んだ。写真にも打ち込み、ヨーロッパ各地を旅行して、1936年にはスペイン内戦下のバルセロナに2週間滞在した。この経験は、のちの小説『ル・パラス』で描かれている。1934年から1935年まで兵役に就き、1937年には、ドイツ、ポーランド、ソ連を旅して、最初の小説の執筆に取りかかった。
1939年8月、竜騎兵連隊に伍長として召集され、翌年にムーズ県で起きた戦闘で捕虜となった。ザクセン地方の収容所に送られたが、1940年10月に脱走し、ペルピニャンに戻った。その後パリに住んで、レジスタンス運動に加わった。戦争体験と旅の記憶は、のちに作品にたびたび描かれることになる。戦後は、ルシヨン地方のワイン生産者となり、ペルピニャンの城館で絵を描きながら、執筆を始めた。1945年に、戦前から書き進めていた処女小説『ペテン師』を出版した。続いて『綱渡り』(1947年)、『ガリバー』(1952年)、『春の祭典』(1954年)を出したが、これらはのちに、試行の時期の、あまり説得力のない作品と見なすようになった。
転機は1956年で、アラン・ロブ=グリエと知り合い、その勧めで翌年に『風』を出版した。この小説は、ミニュイ社から出された。以後、ロブ=グリエ、ミシェル・ビュトール、ナタリー・サロートらとともに、ヌーヴォー・ロマンの旗手とされるようになった。1960年に代表作『フランドルへの道』を出版し、同じ年にエクスプレス賞を受けた。1962年にレア・カラヴァスと結婚した。ほかの作品に、1967年にメディシス賞を受けた『歴史』、『ファルサロスの戦い』(1969年)、『三枚つづきの絵』(1973年)、『農耕詩』(1981年)などがある。のちには『アカシア』(1989年)、『植物園』(1997年)も発表した。絵画や写真にも関心を寄せ続けた。作品はミニュイ社から出版され、ロブ=グリエのほか、のちにノーベル賞を受けたサミュエル・ベケットらと並んで、ヌーヴォー・ロマンの作家に分類された。
1985年、「その小説において、詩人の創造性と画家の創造性を、深められた時間意識に結びつけ、人間の状況を描き出した」としてノーベル文学賞を受賞した。1989年10月には、読売新聞社が主催する「第2回ノーベル賞受賞者日本フォーラム」に出席するため来日し、東京で天皇や政府の要人と会見したのち、札幌市を訪れて、地元の高校生らと対話した。2005年7月6日、パリで死去した。
同じ年に亡くなった人物
- Attilio Giovannini (2005年没)
- ケイ・スタマーズ (2005年没)
- セルジュ・エンドリゴ (2005年没)
- フィリップ・ジョンソン (2005年没)
- Corrado Bafile (2005年没)
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- ルイーズ・ワイス (1983年没)
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