伝記
フォカスは、東ローマ帝国の皇帝である。547年ごろに生まれ、610年10月5日に没した。602年11月23日に即位してから610年までの在位は8年ほどに及んだが、簒奪者として帝位に就き、次の皇帝ヘラクレイオスに殺されたため、暴君として語られることが多い。
前半生はほとんど分かっていない。兄弟の名から、トラキア系ローマ人の出身とする見方が有力だが、フォカスという名は小アジアを思わせ、そちらの出身とする説もある。カッパドキアの出とする修道士ゲオルギオスの記述は論争を呼び、アルメニア系の可能性も完全には排除できない。母はドメンツィアといい、コメンティオロスとドメンツィオロスの二人の兄弟がいた。妻はレオンティアで、娘ドメンツィアがいる。ドナウ川の国境に駐屯する軍の下士官(百人隊長)だったとされるが、東ローマ側の資料はヘラクレイオスに好意的で、彼を身分の低い将校として貶める傾向がある。西方や東方の別の記録では上級将校だったと述べており、パウルス・ディアコヌスは将軍プリスクスの厩務官、フレデガリウスはパトリキウスで公、ヨハンネス・ニキウは、トラキア軍の四人の司令官の一人としている。この食い違いのため、社会的な出身は慎重に見る必要がある。
当時の帝国は苦境にあった。ユスティニアヌス1世の再征服で領土は広がったが、疫病などで国力は傷み、マウリキウス帝の下でもランゴバルド、ペルシア、スラヴ人、アヴァール人の圧迫が続いていた。601年から602年にかけて、皇帝の弟ペトルスが国境強化のためにドナウ川の軍を率いたが、兵たちの給与は十分に払われず不満が募っていた。夏の戦いを終えたのちに、ドナウ川北岸での越冬が命じられると、軍はこれを拒んで反乱を起こし、コンスタンティノポリスへ向けて進軍した。逃げようとした皇帝は捕らえられ、一族とともに処刑された。兵士たちに推されて帝位に就いたのが、フォカスである。
政治基盤は弱かった。元老院議員の貴族たちとは元来関係がなく、反対派を次々に殺して抑えようとした。コンスタンティノポリスやアンティオキアなどでは、サーカス党派の市民の暴動が起きたが、時が経つと受け入れる人々も現れたようである。一方、マウリキウスの援助で復位したペルシアのホスロー2世は、その復讐を掲げて東ローマへ攻め込み、602年から628年に及ぶ戦争が始まった。フォカスは兄弟のコメンティオロスを軍司令官に任じた。従来の通説とは異なり、609年ごろまでの戦いは一進一退だったことが、最近になって示されている。しかしドナウの国境線は、アヴァール人に破られた。
608年ごろ、カルタゴ総督ヘラクレイオスが反乱を起こした。同名の息子ヘラクレイオスが艦隊を率いて首都へ迫り、従兄ニケタスは別動隊を率いて609年にエジプトへ侵攻した。このためシリアの軍がエジプトに急派され、手薄になったシリア国境から、ペルシア軍が本格的に侵入を始める。首都ではサーカス党派やフォカスの婿プリスコスら元老院議員が息子ヘラクレイオスに内通して、610年10月に町は開城した。フォカスは教会に逃げ込んだが引きずり出されて処刑され、一族も皆殺しにされた。その後、息子ヘラクレイオスが皇帝に即位して、ヘラクレイオス王朝が成立した。
同じ年に亡くなった人物
- ヘラクレイオス (610年)
- Waraka ibn Nawfal (610年没)
- Thomas I of Constantinople (610年)
- Witteric (610年)
- レオンティア (610年)
同じ地域に関係する人物
- イブラヒム (オスマン帝国) (1648年没)
- テオドラ (東ローマ女帝) (1056年没)
- Alexander Ypsilantis (1807年没)
- バヤズィト2世 (1512年没)
- セリム2世 (1574年没)