HISTORICAL PERSON · 1512年没

バヤズィト2世

オスマン帝国の第8代スルタン(在位1481〜1512年)。信心深く「聖者」と呼ばれた。父や息子に比べ外征の成果は乏しく、治世は停滞または保守的とも見られる。

生涯
1512年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / イスタンブール)
出生地
ギリシャ共和国(ディディモティホ)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

バヤズィト2世は、オスマン帝国の第8代皇帝で、在位は1481年から1512年である。1447年12月3日に、第7代皇帝メフメト2世の長子として生まれた。「聖者」と呼ばれるほど信心深い敬虔なムスリムであった。華々しい外征を行った父や息子のセリム1世に比べると、外征で目覚ましい成果がなく、書籍では業績が低く評されることもある。その治世は、停滞の時代とも、父の時代の反動でイスラーム色が前面に出た保守的な時代ともみなされる。

1456年に弟ムスタファとともに割礼を受け、父はアナトリアのベイリクたちを招いて大宴会を開いた。これはベオグラード包囲で大敗して帰国した直後で、敗北を忘れる意味合いもあったという。皇子の慣例でアマスィヤの知事を務め、1473年の白羊朝とのバシュケントの戦いでは、イェニチェリとヨーロッパ人からなる部隊を指揮した。アマスィヤの宮廷には、父の独裁的な政策に反対する党派が形成された。

1481年にメフメト2世がイタリア遠征の途上で没すると、弟ジェムとの帝位争いが始まった。ジェムへの使者は縁戚の総督シナンに足止めされ、バヤズィトが先にイスタンブールへ入った。その入城に先立ち、ジェムの擁立を考えていた大宰相はイェニチェリに殺害されており、彼らと父の政策に反対した臣下に支持されて、1481年5月21日に即位した。このためイェニチェリに特権と恩賞を与え、反対派に譲歩する必要があった。ジェムはブルサを占領して自らの名を貨幣に刻み、帝国の分割統治を求めたが、バヤズィトは拒んで、6月20日のイェニシェヒルの戦いで破った。敗れたジェムはマムルーク朝、次いでロドス島の聖ヨハネ騎士団のもとに身を寄せた。バヤズィトは亡命先の諸勢力と交渉を重ね、騎士団には多額の身代金を支払わなければならなかった。1495年にジェムが病死すると、その男子の子孫は、ロドス島にいた1人を除いて全員が絞首に処された。

対外政策では、1492年にモルダヴィアを属国化し、黒海西岸の通行を確保した。陸海軍に新兵器を導入し、1495年には地中海の海賊をオスマン海軍に編入し、西欧の造船技術も取り入れた。1499年にはヴェネツィア領のレパントへ親征し、8月にゾンキオ近海の戦いでヴェネツィアの艦隊を破り、28日にレパントを支配下に置いた。翌1500年にはモレア半島のモドンなども得た。国内では、国庫の立て直しのために余分な支出を減らし、メフメトが導入した新税を廃止した。ユダヤ教徒の一部を技術者として受け入れ、レオナルド・ダ・ヴィンチはボスポラス海峡に橋を架ける案を書簡で提案したが、実現しなかった。1501年から1506年にはバヤズィト・モスクを建てている。皇帝は偶像崇拝を嫌って宮廷の絵画を売却あるいは破棄したため、ジェンティーレ・ベッリーニらの作品の多くが失われた。一方で学者の保護には熱心で、書家シェフ・ハムドゥッラーがその保護を受けた。

晩年は、サファヴィー朝がアナトリアで布教を進めるなか、1511年にシャー・クルを名乗る者の反乱に直面した。政府の宗教政策に不満を持つ民衆も加わり、反乱は約1万の軍勢に達した。大宰相ハドゥム・アリー・パシャらが戦死し、反乱軍の大部分はサファヴィー朝へ逃れた。鎮圧の失敗のなかで、イェニチェリの支持は三男セリムに傾いた。1512年3月にクリミアから戻ったセリムがクーデターを起こし、4月25日にバヤズィトは廃位された。隠棲先のディメトカへ向かう途上の5月26日に没したが、セリムによる毒殺を指摘する声が多い。

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