伝記
セリム2世は、オスマン帝国の第11代皇帝(スルタン)である。1524年5月28日、スレイマン1世と寵妃ヒュッレム・ハセキ・スルタン(ロクセラーナ)の子としてイスタンブールに生まれた。軍事への関心が薄く、大臣たちに権限を委ねた最初のスルタンとされ、放蕩と飲酒にふけったため「酒飲み」「酔っ払い」の渾名で呼ばれた。父と比べて凡庸と評される一方、大宰相を中心とする官人統治に向いた人物とも評価され、詩人としての一面もあった。
父の存命中はコンヤを任地とし、1545年にヴェネツィア貴族の家系に連なるチェチーリア・ヴェニエル=バッフォ(ヌール・バヌ)を妻に迎えた。1554年のペルシャ遠征では、アナトリア出身の兵で構成された右翼軍を率いた。1530年代から宮廷では後継者をめぐる暗闘が続き、ロクセラーナは自分の息子を立てるため皇子ムスタファに策謀を巡らせていた。1553年にムスタファが処刑されると、セリムと弟バヤズィトが候補に残った。セリムはイェニチェリの、バヤズィトはティマール保有者と農民の支持を受けた。ロクセラーナは怠惰で酒好きのセリムより有能なバヤズィトを望んだと思われるが、骨肉の争いにならぬよう配慮していた。1558年に彼女が没すると、両者の政争が始まった。
セリムの家庭教師であったララ・ムスタファ・パシャの偽書を使った策略でバヤズィトは父に疎まれ、スレイマンはセリムの任地をキュタヒヤに、バヤズィトをアマスィヤに移した。1559年にバヤズィトは異動を拒んで挙兵し、約2万の軍勢が集まった。しかし大宰相ソコルル・メフメト・パシャ率いる軍がセリムのもとへ派遣され、コンヤ近郊の戦いでセリムが勝った。サファヴィー朝に亡命したバヤズィトとその子らは、スレイマンとセリムの要請で処刑され、父に逆らわなかったセリムが唯一の後継者となった。1566年9月、スレイマンがハンガリー遠征中に陣没すると、軍規維持のため死は秘匿され、ソコルルはセリムに書簡を送って遠征軍に合流させた。ベオグラード近郊で初めて父の死が明かされ、兵士が下賜金を求めて示威行動を起こしたため、継承戦で資金を使い果たしていたセリムは、姉ミフリマー・スルタンから5万ドゥカートを借りて賞与に充てた。
即位後のセリムは一度も親征を行わず、トプカプ宮殿とエディルネの狩場で日々を過ごし、国事の大部分はボスニア出身のソコルルが担った。1568年には神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世と和平を結び、年3万ドゥカートの「貢納」を支払わせた。1569年にはフランス王シャルル9世にカピチュレーションを授けた。同年のアストラハン包囲とヴォルガ・ドン運河の計画は失敗した。1570年春、ソコルルの諌止を押し切ってキプロス遠征を決め、1571年に島を制圧したが、教皇ピウス5世の呼びかけで結成された連合軍に、同年10月のレパントの海戦で敗れた。艦隊は翌年再建され、1573年にヴェネツィアと講和し、1574年にはチュニジアを奪還した。
晩年のセリムはワインを一瓶飲み干した後、トプカプ宮殿の新しい浴場で濡れたタイルに滑って頭を打ち、11日後の1574年12月12日に没した。跡は子のムラト3世が継いだ。ニギャーリーが描いた狩猟中の肖像画は、太った体と酒焼けした赤い顔を写し出す一方、威厳と繊細さも表現していると評価されている。
同じ年に亡くなった人物
- パウルス・マヌティウス (1574年没)
- グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ (1574年没)
- 武田信虎 (1574年没)
- ガブリエル・ド・ロルジュ (1574年没)
- シャルル・ド・ロレーヌ (1524-1574) (1574年没)
同じ地域に関係する人物
- シェイフ・ハムドゥッラー (1520年没)
- グリゴリオス5世 (コンスタンディヌーポリ総主教) (1821年没)
- Humasah Sultan (1582年没)
- Hanzade Sultan (1650年没)
- テオドラ (ユスティニアヌスの皇后) (548年没)