HISTORICAL PERSON · 1667年没

フランチェスコ・ボッロミーニ

ベルニーニらと並ぶイタリア・バロックの代表的建築家。サン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ聖堂のように曲面を多用した幻想的な作風で、後世に大きな影響を与えた。

生涯
1667年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
スイス連邦(ビッソーネ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

フランチェスコ・ボッロミーニは、1599年9月25日にルガーノ湖畔のビッソーネ(現在のスイス、ティチーノ州)で生まれ、1667年8月3日にローマで没した建築家である。ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、ピエトロ・ダ・コルトーナと並ぶイタリア・バロックの代表者とされ、出身地スイスの紙幣、第6次と第7次の100フラン札には肖像が描かれていた。本名はフランチェスコ・カステッリで、ボッロミーニは一族にすでにあった通称にもとづき、1628年から自作に署名するようになった名とされる。

四人きょうだいの長男で、父ジョヴァンニ・ドメニコ・カステッリはミラノでヴィスコンティ家に仕えた建築家とも石工の親方ともいわれる。母アナスタジア・ガルヴォは、建築家や施工者を輩出した裕福な一族の出で、ドメニコ・フォンターナとも縁続きだった。9歳ごろ、石工と彫刻の修業のため、当時スペイン支配下にあったミラノに送られ、大聖堂造営局の付属の学校に入った。素描の授業も受けたことが記録に残る。造営局を解雇されたのは、ローマのサン・ピエトロ大聖堂の工事現場へたびたび出かけて、ミラノを空けるようになったためだと推測される。1619年ごろにローマへ移り、母方の叔父レオーネ・ガルヴォの家に身を寄せ、その大理石彫刻の事業を手伝った。仕事の多くは大聖堂の工事主任カルロ・マデルノから来ていたが、まもなく叔父は大聖堂の足場から落ちて亡くなった。マデルノの取り計らいで、ボッロミーニは叔父の工房の大理石などを買い取った。こうして石工として腕を買われ、マデルノの助手となり、サン・ピエトロ大聖堂やサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ聖堂、パラッツォ・バルベリーニなどで働いた。

1629年1月30日にマデルノが没すると、大聖堂の工事主任はベルニーニに引き継がれた。ボッロミーニはベルニーニのもとでバルダッキーノの完成を助け、パラッツォ・バルベリーニでも働いたが、二人の仲はうまくいかなくなった。ボッロミーニはベルニーニの構造への知識を疑い、ベルニーニはボッロミーニの建築の作り方をよく思わなかった。1634年にサン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ聖堂の仕事を受けて独立すると、以後は協力することなく、ライバルとして対立感情をあらわにした。教皇インノケンティウス10世には深く庇護され、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の改築を引き受けた。ほかにサンティーヴォ・デッラ・サピエンツァ聖堂(1642年から50年)やサンタニェーゼ聖堂(1653年から57年)がある。サン・カルロ聖堂のように曲面を多用して幻想的な効果を上げる作風は、ベルニーニの古典主義的で端正な作風と対照的であり、後のバロック建築に大きな影響を与えた。しかし次の教皇アレクサンデル7世の時代になると、教皇庁の大きな工事はなくなり、ベルニーニが建築家として活躍するようになった。

激情にかられやすく嫉妬深い憂鬱質で、気難しい性格だったとされる。自分の図面を「子ども」と呼んで大切にし、アイディアの盗用を異常なほど警戒して、多くの図面を生前に焼き捨てた。同時代の伝記作家によれば、背が高く筋骨隆々とし、髪は黒く、いつも古めかしいスペイン風の黒い長衣を着ていたという。生涯を独身で過ごした。神経症に悩まされ、1667年8月3日、剣の上に倒れこむようにして衝動的に自殺し、67年の生涯を閉じた。

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