伝記
フィリス・ホイートリーは、アメリカの詩人で、アフリカ系アメリカ人女性として初めて詩集を出版した人物である。1753年ごろに生まれ、1784年12月5日に31歳で没した。西アフリカの生まれで、7歳か8歳のときに奴隷として売られ、北アメリカに連れ出された。ボストンのホイートリー家に買われ、一家から読み書きを習い、才能を見いだされて詩作をするようになった。
生まれた日時と場所の記録は残っていない。研究者によれば、1753年に西アフリカの、おそらく現在のガンビアかセネガルのあたりで生まれた可能性が高い。地域の首長が商人に少女を売り、商人は船でマサチューセッツ州ボストンの植民地に、1761年7月11日に連れてきた。ボストンの裕福な商人ジョン・ホイートリーに買い取られ、読み書きを教わると、才能を認められて文学や古典も学んだ。キリスト教の信仰にも関心を持った。14歳で初めての詩「ニューイングランドのケンブリッジ大学へ」を書いた。ポープやミルトン、ホメロスらを学んだことが、詩作に影響を与えた。
1768年には、ジョージ3世が1765年の印紙法を撤回したことを称える詩を書いた。やがてアメリカ独立を支持するようになる。1770年には、福音主義の伝道者ジョージ・ホウィットフィールドの死を悼む挽歌を書き、大評判となった。しかし植民地の多くの人は、アフリカから来た奴隷が優れた詩を書いたとは信じられず、1772年には、自分で詩を書いたと証明するために、法廷に出て自らを弁護せざるを得なくなった。
1773年、20歳のとき、ホイートリー家の息子ナサニエルに同行してロンドンへ行った。健康のためであり、また主人の妻スザンナが、イギリスのほうが詩を刊行する機会が得られるだろうと考えたからでもあった。ハンティンドン伯爵夫人セリナ・ヘイスティングスが才能に目をつけて詩集のパトロンとなり、1773年9月1日に、夫人への献辞をつけた『さまざまな主題についての詩集 宗教と道徳』が刊行された。伯爵夫人は病気のため直接会えず、二人の書簡が残る。スザンナが病気になったため、刊行前にボストンに帰り、詩集の刊行後、ホイートリー家から解放されて奴隷の身分ではなくなった。詩集は1816年までに11版を重ねた。
1775年には、ジョージ・ワシントンに詩を送り、1776年3月、ワシントンの招きでケンブリッジの基地を訪れた。トマス・ペインはこの詩を、同年4月の新聞に再掲した。1774年のスザンナの死までその看病をし、1778年ごろまで旧主人の一家と暮らした。ジョン・ホイートリーが亡くなると、1778年に自由黒人のジョン・ピーターズと結婚した。夫妻は生活に苦労し、生まれた子のうち2人が赤ん坊のうちに亡くなった。1779年には二冊目の詩集の計画書を作ったが、金銭の問題、解放後にパトロンを失ったこと、独立戦争のために果たせなかった。夫が借金で投獄されると、ボストンの寄宿舎でメイドとして働いたが、1784年12月5日に亡くなり、幼い息子もほぼ同時に亡くなった。
作品は、キリスト教の信仰、古典主義、秘儀的な太陽信仰を主なテーマとする。奴隷制を扱った詩では、アフリカから連れてこられたことでキリスト教に導かれたのは慈悲だったと表現したが、他の詩では、奴隷制を残酷な運命と批判した。1773年の詩集が出ると、「地球上で最も有名なアフリカ人」となり、ヴォルテールやワシントンからも賞賛された。後世の批評家は、その作品をアフリカ系アメリカ人文学の礎と見なしている。
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