伝記
ラウラ・バッシは、1711年10月にボローニャで生まれ、1778年2月20日に没したイタリアの物理学者である。ヨーロッパの大学で初めて教授となった女性として知られる。ミネルヴァの名で描かれ、ボローニャのミネルヴァとも呼ばれた。
経済的に恵まれない環境に生まれ、きょうだいのうち生き残ったのは彼女だけだった。弁護士だった父ジュゼッペは、ひとりの子によりよい教育を受けさせたいと望んだ。学校には通わず、5歳から13歳まで従兄弟の神父ロレンツォ・ステガーニにラテン語、フランス語、算術を学び、ラテン語は話すことも書くこともでき、のちに大学の講義や出版にも使った。13歳から20歳までは、家の主治医でボローニャ大学の医学教授ガエターノ・タッコーニのもとで、哲学、論理学、形而上学、数学、力学、化学、博物学などを学んだ。弁論の訓練も受けている。師は彼女の語学と自然哲学への造詣を見抜き、地元の一流学者を招いて知識を披露させる催しを開いた。ボローニャの大司教ランベルティーニ、のちの教皇ベネディクトゥス14世も出席して感銘を受け、以後は主要な後援者となって、市や大学から正式な認知を得る手助けをした。
1732年3月、ボローニャ科学芸術アカデミーの会員に選ばれた。女性として初めてで、4月17日には市庁舎で49の命題を公開で論じた。大半は物理学に関するもので、形而上学や論理学も含まれた。多くの学者や政治、宗教界の有力者が聴衆に加わった。5月12日、大学は彼女に哲学の学位を授与した。これは世界で二人目の女性の哲学博士で、女性初の科学分野の博士号でもあった。大学で講義をする権利を得たが、特認が必要だった。6月27日にはアルキジンナージオで12の命題をさらに論じた。その後も学びを続け、ベッカーリにニュートンの著作を、マンフレディに数学的解析を学んだ。1735年には、女性として初めてバチカン図書館の蔵書と文書が開放された。
1738年に医師で解剖学を講じるジュゼッペ・ヴェラッティと結婚した。夫とは緊密な協力関係にあり、実験物理学の研究に向かう刺激を受けたともいわれる。子の数には八人とも十二人ともあり、洗礼記録は八人分だけだが、確かでない。1745年に教皇の後押しで科学アカデミーの特別会員に迎えられ、唯一の女性会員となった。それでも大学の教壇に立つ機会は増えなかった。そこで1749年に自宅で実験物理学の講義を始めた。この講座は盛況で、ほぼ20年続いた。自宅とアカデミーで、応用物理学、理論物理学、化学、数学の講義を40年以上続けた。講義の三分の一は流体の研究に費やされ、エミリー・デュ・シャトレの物理学教本を使っていた。科学の著作は一冊も発表しなかったが、ニュートン力学の講義で高く評価された。電気の実験にも取り組み、治療効果に着目して夫の研究に貢献し、フランスのノレやフランクリンと書簡を交わし、ボルタとも交流があった。1740年には、教皇となったランベルティーニの助けもあり、大学から私的な講義と実験の許可を得ている。1776年に65歳で応用物理学の正教授の地位を授かり、亡くなるまで2年間務めた。ボローニャのコルプス・ドミニ教会に葬られている。
同じ年に亡くなった人物
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- アンナ・マリア・モーツァルト (1778年没)
- トマス・アーン (1778年没)
- ジャン=ジャック・ルソー (1778年没)
同じ地域に関係する人物
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- ファウスト・グレシーニ (2021年没)
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