伝記
ジャン=ジャック・ルソーは、フランス語圏の都市国家ジュネーヴ共和国に生まれ、主にフランスで活躍した哲学者、政治哲学者、作曲家である。1712年6月28日に生まれ、1778年7月2日に没した。ジュネーヴはカルヴァン派のユグノーが構成するプロテスタントの都市国家で、当時はまだスイス誓約者同盟に加盟していなかった。ルソーは生涯この町を故郷とし、自分をジュネーヴ市民と見ていた。
1712年、ジュネーヴのグラン・リュ街で、父イザークと母シュザンヌ・ベルナールの子として生まれた。先祖はパリ近郊の出で、5代前の書店主ディディエ・ルソーが、1549年にプロテスタント弾圧を逃れてジュネーヴに移住していた。父は陽気で温和な時計職人で、時計師は当時のジュネーヴで上位身分の市民と町民に限られた職であり、母方の祖父も時計師だった。貧困層ではない中間的な職人階級の家だったが、幸せな家庭環境には恵まれなかった。生後9日の7月7日に母を亡くした。母は裕福な一門の出で、賢く美しい女性だったといわれる。幼いころは病弱で、病気がちだったことと精神面の敏感さが生涯の苦悩の原因になった。1717年に一家は庶民の住むサン=ジェルヴェ地区に移り、父方の叔母の養育を受けた。7歳のころから父とともに小説やプルタルコスの『英雄伝』など高度な読書をし、この体験が、理性よりも感情を重んじる思想の素地になったとされる。
1722年、10歳のころに人生が一変する。父が元軍人の貴族との喧嘩で剣を抜いて告訴され、ジュネーヴから逃亡することになった。兄は徒弟奉公に出された後に出奔して行方知れずとなり、孤児同然となったルソーは、母方の叔父に従兄とともに牧師ランベルシェのもとに預けられ、郊外のボセーで不自由な寄宿生活を送った。牧師の妹である独身の40代女性から身に覚えのない罪でしばしば折檻され、この時期に不法な支配への反発心が生まれたという。1724年秋にジュネーヴへ戻り、書記見習いとなったが長続きせず、1か月半後には、横暴で教育能力のない20歳の彫金師のもとで、5年契約の徒弟奉公を強いられた。日常的に虐待を受け、嘘をつき、仕事をさぼって盗みを働く素行不良の少年になったが、貸本屋で本を借りて読書にふける習慣は続いた。読書は唯一の逃避だった。
1728年3月14日、市の城門の閉門に遅れ、親方からの罰を恐れて出奔を決意し、一年に及ぶ放浪生活に入った。トリノまで行ったが落ち着けず、サヴォワ領のコンフィニョンで司祭の保護を受け、3月21日にアヌシーのヴァランス男爵夫人を訪ねて世話を受けるようになった。このとき、ルソーは15歳、夫人は29歳であった。夫人は夫との不仲から家を出てカトリックに改宗し、サヴォワ公の保護で多額の年金を受けていた。夫人の手配でカトリック改宗のためトリノの救護院に入り、形ばかりの改宗の後に解放されたが、職を転々として信用を失った。この間、年長のサヴォアの助任司祭ゲームから温かい援助を受け、生き方を改めるよう励まされた。この経験は、後に『エミール』第4巻の「サヴォア人司祭の信仰告白」の思想の中核になった。
1729年春にはヴァランス夫人のもとへ戻り、夫人を「ママン」と呼んで、親子のような情愛を受けて幸福だったという。
同じ年に亡くなった人物
- Charles De Geer (1778年)
- ジェームズ・ハーグリーブス (1778年没)
- ペドロ・アントニオ・デ・セバーヨス (1778年没)
- ジャン・バティスト・クリストフォル・フュゼ・オーブレ (1778年)
- アルヴィーゼ・モチェニーゴ4世 (1778年)
同じ地域に関係する人物
- ルイ・ド・ジョクール (1779年没)
- レオン・ボナ (1922年没)
- ユーグ・ド・フランス (1025年没)
- フェルディナン・ビュイソン (1932年没)
- ギー (フランドル伯) (1305年没)