伝記
ヴォルテールは、本名をフランソワ=マリー・アルエといい、1694年11月21日にパリで生まれ、1778年5月30日に没したフランスの哲学者であり、文学者、歴史家である。ロックらとともに啓蒙主義を代表する人物とされ、ディドロやダランベールら百科全書派とも交流して、百科全書にも寄稿した。ヴォルテールという名は筆名で、アルエのラテン語表記を並べ替えたアナグラムだとか、幼い頃のあだ名である意地っぱりをもじったものだとか、諸説ある。
パリの公証人の子で、父は裕福なブルジョワであり、文学者たちとの交遊がヴォルテールに強い影響を与えた。1704年から1711年までイエズス会のルイ=ル=グラン学院で優れた教育を受けたが、司法官にはならず、詩人になることを決意した。堅実な人生を望む父とは対立した。1713年にはオランダ大使の秘書として赴いたが、到着早々に恋愛騒ぎを起こし、3か月で追い返された。1716年に摂政の恋愛についての詩を書いて城に引きこもり、フランスの政治を痛烈に中傷する詩を流布したあげく、1717年5月にバスティーユ牢獄に11か月投獄された。ヴォルテールの筆名を用いたのはこの時期である。1718年11月に処女作の悲劇『エディップ』がコメディー・フランセーズで初演され、45回という異例の上演で大成功を収め、摂政から金メダルと年金を受けた。
名門貴族ロアン=シャボーとのトラブルののち、1726年4月に再びバスティーユに投獄されたが、釈放されると自らの意志でイギリスに渡った。ここで人間の理性を信頼し、自由を標榜する立場から、イギリスの自由な風潮にふれて、フランスの前時代的な封建的性格を思い知った。ロックやニュートンの哲学に惹かれ、これが『哲学書簡』につながった。1728年秋にフランスへ戻り、1733年にシャトレ夫人と出会い、愛人関係となった。『哲学書簡』はイギリスの諸制度のほうがはるかに優れているという論調だったため、愛国者の怒りを買い、焚書の対象となって、1734年に逮捕状が出た。彼はロレーヌのシレーにあるシャトレ家の館に隠れ、夫人との同棲生活は1749年まで続いた。1738年に『ニュートン哲学要綱』を著してニュートン思想の流布に一役買ったが、数学や物理学の部分は夫人の教えを受けていたとされる。1746年にアカデミー・フランセーズの会員に選ばれた。
1750年にプロイセンのフリードリヒ大王の招きで訪れ、ポツダムで侍従となったが、衝突が続いて1753年に辞職した。ルイ15世にパリ入城を禁じられ、1754年末にジュネーヴへ移った。1759年には、ライプニッツの楽観的な世界観を批判した『カンディード』を著した。1760年にはスイス国境に接するフェルネに居を定め、死の直前まで住み続けて、時計工業や養蚕など地元の産業にも力を入れた。1762年にカラス事件が起きると、死刑に処されたジャン・カラスの冤罪を晴らすために奔走し、1765年に再審で無罪を勝ち取った。『寛容論』『哲学辞典』もこの時期の著作である。1778年に戯曲『イレーヌ』のパリ上演の知らせを受けて28年ぶりにパリへ戻り、熱狂的に迎えられたが、上演を見届けた後に健康が悪化し、5月30日に没した。パリの教会が埋葬を拒んだため、遺体はスイス国境近くの修道院に葬られたが、フランス革命中の1791年にパンテオンへ移された。
同じ年に亡くなった人物
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- ローレンツ・クリストフ・ミツラー (1778年没)
- ペドロ・アントニオ・デ・セバーヨス (1778年没)
- クリスティーネ・フォン・ヘッセン=ローテンブルク (1778年没)
- ルートヴィヒ・ツー・メクレンブルク (1778年没)
同じ地域に関係する人物
- ポール・クローデル (1955年没)
- ジャン・ダニエルー (1974年没)
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- ウジェーヌ・アジェ (1927年没)
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