伝記
ポール・クローデルは、1868年8月6日、北フランスのエーヌ県の村で、父ルイと母ルイーズの4人の子の末子として生まれた。彫刻家カミーユ・クローデルは姉である。収税官だった父の転勤で幼時を転々としたのち、1881年にパリのルイ大王高等中学校に学び、級友のロマン・ロランとコンサートに通って文学に親しんだ。1885年にパリ大学法学部へ進み、翌年ランボーの『イリュミナシオン』と『地獄の季節』を読んで、カトリックに回心した。1887年からはマラルメの「火曜会」に出席し、詩や戯曲を書いた。1890年に外交官試験に首席で合格し、外務省商務部の専門職員となった。
1935年に退官するまでの外交官としての経歴は、ニューヨーク副領事に始まり、1895年から1909年は清国の上海、福州、北京、天津などに勤務した。その後プラハ、フランクフルト、ハンブルクで領事・総領事を務め、1917年からはリオ・デ・ジャネイロの公使となって、作曲家ダリウス・ミヨーを秘書として伴った。1919年にコペンハーゲンの大使となり、1921年11月から1927年2月までは駐日フランス大使として東京に赴任した。のちに駐米大使、駐ベルギー大使も務めたが、在任中も文筆を怠らなかった。福州へ戻る船上で知ったポーランド系ベルギー人のロザリー・ヴェッチ夫人との愛は、戯曲『真昼に分かつ』や『繻子の靴』を生んだとされる。1898年には上海勤務の休暇に約1か月日本を観光している。1900年には聖職を志して修道院に籠もったが挫折した。1906年にはレーヌ・サント=マリー=ペランと結婚し、5人の子をもうけた。
駐日大使の時代、クローデルは日本美術を好み、公務の合間に各地を訪ねて、東京・京都・大阪・福岡の学生らに講演した。能、文楽、歌舞伎を観て、冨田溪仙や竹内栖鳳ら画家、五代目中村福助らと親しくし、日本では「詩人大使」と呼ばれた。関東大震災では自身も被災しながら救助活動を指揮し、病院と託児所を仮設している。1924年に渋沢栄一と協力して日仏会館を発足させ、1925年には大作『繻子の靴』を書きあげた。関西日仏学館の設立も推進したが、開館の日は駐米大使として渡米する船上にいた。
退官後は1927年に求めたブラング城とパリに住んだ。1934年にはミヨーに頼まれて『火刑台上のジャンヌ・ダルク』を書いたが、1935年にアカデミー・フランセーズの会員選挙には敗れた。ドイツ占領下の1940年には著書『接触と環境』が出版後ただちに廃棄処分にされ、1941年にナチスのユダヤ人迫害に抗議し、1942年にはアカデミーからの入会の勧誘を拒んだ。1943年にはコメディ・フランセーズで『繻子の靴』の短縮版を上演した。解放後の1946年にアカデミー・フランセーズ会員となり、1948年にはド・ゴールの依頼で国家評議会の会員となり、1951年にレジョン・ドヌール大十字勲章を受けた。1955年2月23日、パリの自宅で86歳で没した。その4日前まで『マリアへのお告げ』の上演に関わっていた。2月28日にノートルダム寺院で国葬が営まれた。戯曲『マリアへのお告げ』、詩集『五大頌歌』などカトリック信仰に根ざした作品は、20世紀前半のフランス文学で最も重要な存在の一人と評される。
同じ年に亡くなった人物
- ループレヒト (バイエルン王太子) (1955年没)
- 早坂文雄 (1955年没)
- フランチシェク・ヤンダ・スゥク (1955年没)
- オナ・マンソン (1955年没)
- ウジェーヌ・デルポルト (1955年没)
同じ地域に関係する人物
- ロベール・デリ (2004年没)
- セベロ・サルドゥイ (1993年没)
- フレデリック・ジョリオ=キュリー (1958年没)
- ジゼル・フロイント (2000年没)
- ハリー・サルツマン (1994年没)