伝記
初代クライヴ男爵ロバート・クライヴは、イギリスの軍人であり政治家、貴族である。1725年9月29日に生まれ、1774年11月22日に没した。英領インドの基礎を築いた人物とされ、ベンガルにおける東インド会社の支配を築いた功績で、初代のベンガル総督となったことでも知られる。
イングランド西部のシュロップシャーにある、クライヴ家の領地スタイチで生まれた。一族は数代にわたって公職を務めた家柄で、父リチャードは領地の収入を補うため弁護士を務め、長く議員も務めた。ロバートは13人の子の長男だった。父は気性が激しく、少年もそれを受け継いだらしい。幼いうちにマンチェスターの母方の叔母に預けられ、義理の叔父は、この子が度を越して喧嘩を好むと記している。学校でも問題を起こしてばかりで、いくつもの学校を転々とした。教会の塔に登って怪物像の上に座り、下の人々を驚かせたという逸話も伝わる。のちには教育の不足を補うために努め、独特の文体を身につけた。下院での演説は、大ピットに、これまで聞いた中で最も雄弁だと評されたという。
18歳ごろ、父の世話で、東インド会社の最下級の書記としてインドへ向かい、船がブラジル沿岸で座礁して、9か月も足止めされる間にポルトガル語を少し覚えた。マドラスのセント・ジョージ砦に着くと、帳簿の整理や納入業者との品質をめぐる議論に追われた。総督の蔵書を読みあさったのもこの頃である。折しもマドラスがフランス軍に占領されて捕虜となったが、脱出に成功した。これを機に会社の軍に加わり、1747年に将校に任命された。インドの覇権を狙うフランス東インド会社と戦い、1751年にはマドラス西方のフランス軍の要塞アルコットを占領した。この遠征の成功は、会社が現地の傀儡政権を通じた間接統治というフランスの戦略を採るきっかけになったとされる。1753年に帰国すると英雄として迎えられ、多額の資金を使ったが、政治家になる望みは果たせなかった。
1756年にセント・デーヴィッド要塞の知事として再びインドに渡った。この年、フランスと結んだベンガル太守がカルカッタを奪ったため、翌1757年、約600人のイギリス兵と800人のセポイ、500人の水兵を率い、3万4千のベンガル太守軍をプラッシーの戦いで破った。この勝利でベンガルにおけるイギリスの覇権が確立した。クライヴが1767年にインドを離れたとき、資産は約40万ポンドにのぼった。1760年に帰国して下院議員の議席を買い、1762年にアイルランド貴族の男爵に叙され、1764年にはナイトに叙爵された。1765年にベンガル知事として三たびインドに赴き、ムガル帝国皇帝から、イギリスのベンガル支配を公認する勅書を受けた。これで英領インドの基礎が固まった。
1767年に帰国すると、インドで私腹を肥やしたとして議会で弾劾され、1773年にようやく無罪となったが、屈辱を受けた。健康が悪化し、アヘン中毒にもなって、1774年にロンドンの自宅で自殺した。なお、クライヴが飼っていたとされるアルダブラゾウガメのアドワイチャは、コルカタの動物園で飼育され、2006年に死んだ。
同じ年に亡くなった人物
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