HISTORICAL PERSON · 1925年没

ジョン・シンガー・サージェント

米国の画家。フィレンツェに生まれ、フランスで美術を学び、主にロンドンとパリで活動した。上流社交界の人々を描いた優雅な肖像画で知られる。

生涯
1925年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
イタリア共和国(フィレンツェ)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

ジョン・シンガー・サージェントは、1856年1月12日にトスカーナ大公国のフィレンツェで、アメリカ人医師の子として生まれた、19世紀後半から20世紀前半のアメリカの画家である。フランスで美術教育を受け、おもにロンドンとパリで活動し、上流社交界の人々を描いた優雅な肖像画で知られる。父フィッツウィリアムは、フィラデルフィアの病院で眼科の外科医を務めていたが、兄を2歳で失った母メアリーが神経の衰弱に陥ったため、夫妻は回復を求めて国を離れ、以後は国外を転々とした。妻が妊娠中にコレラの流行でフィレンツェに留まったとき、ジョンが生まれた。一家は小さな遺産と貯えで質素に暮らし、人づきあいを避けた。母は熱心なアマチュアの画家で、父は医学のデッサンに長けており、母は彼にスケッチ帳を与えて、旅先で描くよう励ました。

落ち着きのない子で、勉強よりも戸外での活動を好み、学校に通う試みはいずれも失敗に終わった。13歳のころ、ドイツ人の風景画家カール・ヴェルシュに水彩画を習った。教育は完全とは言えなかったが、フランス語、イタリア語、ドイツ語を自在に話し、美術、音楽、文学に通じた国際的な青年に育った。12歳の1868年から1869年にかけて、ローマでヴェルシュのアトリエに通い、絵を学んだ。1870年にフィレンツェに戻り、美術アカデミーに通ったが、再編の最中でうまくいかなかった。1874年、18歳でパリに出て、カロリュス=デュランに師事し、エコール・デ・ボザールにも通った。ボザールの入学試験には、最初の挑戦で合格した。こうしてアカデミックな美術教育を受け、1877年からサロンに出品するようになった。1874年から1879年までデュランのもとで修業したのち、イタリアとスペインを旅行し、とりわけベラスケスの影響を受けた。

1884年にパリのサロンに出品した『マダムXの肖像』で、スキャンダルに巻きこまれた。この絵は、当初『…夫人の肖像』の題で発表されたが、アメリカ出身で、フランス人銀行家と結婚したゴートロー夫人を描いたものと見なされた。人妻を描いたものとしては、あまりに官能的で品がないと、批評家から非難された。翌1885年にパリを離れてロンドンに居を構えたのは、このスキャンダルから逃れるためだったと言われる。ロンドンでも肖像画家として地歩を固め、ロイヤル・アカデミーには1882年から出品し、1897年には正会員となった。1887年にはパリ近郊のジヴェルニーにモネを訪ねた。『カーネーション、リリー、リリー、ローズ』には、日本から輸出された盆提灯とヤマユリが描かれ、当時のジャポニスムの影響がうかがえる。

1891年にボストン公共図書館の壁画制作を始め、1905年ごろからほぼ毎年アメリカを訪れた。1916年には、ボストン美術館のロトンダの天井画の制作を依頼され、ギリシャ・ローマ神話に想を得た天井画や装飾レリーフ、空間全体の設計を担当し、1925年の死の直前まで制作に関わった。1907年ごろからは肖像画の注文を断り、晩年は水彩の風景画をおもに制作した。第一次世界大戦を主題にした『毒ガスをあびて』は、1919年の作である。生涯に約900点の油彩と2000点以上の水彩を残した。1925年4月14日、ロンドンで没した。

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