伝記
ドゥリスは、アテネで活動した古代の赤像式の陶器画家であり、陶工でもあった。活動期は紀元前500年ごろから前460年ごろまでとされ、赤像式陶器画のなかでも特に多作で重要な芸術家の一人に数えられる。生没年は分かっていない。オネシモスの弟子で、ブリュゴスの画家と同時代の人だったともいわれる。
経歴の初めには、陶工クレオフラデスやエウフロニオスのために絵付けをし、そののち陶工ピュトンとの長い協力関係に入った。画家として署名した器は39点とも50点以上ともいわれ、画家と陶工を兼ねた署名が1点、陶工のみの署名が1点あるとも、陶工としての署名が2点あるともされる。ヘラクレスとアマゾン族の戦いを描いた赤像式の壺は、自ら作り絵付けもした器で、細部の描写と、ライオンの皮などに用いた薄めた釉の効果への熟達を示している。作品とされる器は250から300点、あるいは300点以上にのぼり、大半はキュリクス、つまり杯である。若いころの作には、パナイティオスの画家の影響が明らかだともいう。彼の名は人気があったらしく、オネシモスの杯では、少女が持つ器の上にこの名が記されている。
作風は、素描の完璧な腕前で知られる。構図が単純で人物が細長く、男と若者、男と女といった左右対称の組をなすことが多い独自の様式をつくり上げ、変化をつけながらも型にはまることも自己模倣に陥ることもなかった。神話、饗宴、競技、性愛などの場面を杯の内外に描き、円形の画面にふさわしい構図を考案する才にも恵まれていた。鎖骨の内端を曲げずに表す簡素な形や、浅く単純な腰の溝の曲線も特徴である。
美術史家ジョン・ビーズリーは、署名、美男を称える賛辞の銘、器の副次的な装飾にもとづき、その経歴を四つの時期に分けた。第一期は、ごく初期から初期にあたり、多様な縁飾りによる充実した装飾が特徴で、好んだ主題は饗宴、酔客の行列、戦士であり、賛辞の銘にはカイレストラトスの名が多い。この時期にはオネシモスと同じ工房で並んで働いた可能性も指摘される。第二期にはエウフロニオスとの協力が終わり、カイレストラトスの銘は引き続き好まれ、以後はピュトンのために描く。副次的な装飾は後退し、円形画面の多くは縁を持たず、若者や競技者の場面が好まれた。鎖骨の内端を鉤のように表す癖が彼の手の目印となる。この時期の代表作は、酔ったサテュロスの姿を酩酊の段階ごとに戯画的に描いた冷酒器である。
第三期は様式が最も個性的になった中期であり、その頂点ともされる時期で、円形画面の縁には蛇行文と方形が交互に並び、取っ手にはパルメットが飾られる。賛辞の銘はヒッポダマスが優勢になり、署名は少なくなった。饗宴の場面に戻り、戦士や学校の場面も描く。代表作は「メムノンのピエタ」と呼ばれる杯で、トロイア戦争でアキレウスに討たれた息子メムノンの遺体を、暁の女神エオスが抱えている。第四期の後期には再び装飾が充実し、取っ手のパルメットは複雑になり、ロータスの文様も並んで現れる。署名はすっかり消え、賛辞の銘も減り、ポリュフラスモンやヒケテスといった名が見られる程度になる。縁飾りは、停止した蛇行文と斜め十字が交互に並ぶ第三期の型を残すこともあるが、しだいに一般的な型に戻っていった。素描は優美さと力強さを失っていったとされる。その作品はベルリン、ウィーン、ロンドン、パリなどの美術館に伝わっている。
同じ年に亡くなった人物
- テオゲネス (紀元前 500年(推定))
- ハーラルスケーアの女性 (紀元前500)
- 老子 (紀元前 500年(推定))
- パンの画家 (紀元前 500年(推定))
- ゴルゴー (紀元前 500年(推定))
同じ地域に関係する人物
- アレクサンドロス・パパナスタシオウ (1936年没)
- ゲオルギオス・ツォラコグル (1948年没)
- ペトロス・ペルサキス (1952年没)
- ペイシストラトス (紀元前527年没)
- パナギオティス・ダングリス (1924年没)