HISTORICAL PERSON · 紀元前527年没

ペイシストラトス

アテナイの僭主。高地党を結成して権力を握り、追放を経て実権を回復し、ラウレイオン銀山を開発した。小農民や商工業者を保護し、アリストテレスはこの時代をアテナイの全盛時代と評した。

生涯
紀元前527年没
死亡地
ギリシャ共和国(アッティキ / アテネ)
出生地
ギリシャ共和国(アテネ)
出典
世界地図
ギリシャ共和国(アッティキ)

伝記

ペイシストラトスは、紀元前6世紀の古代アテナイの政治家で、僭主として支配した人物である。紀元前527年に没した。560年代の末と550年代の初め、そして紀元前546年から死去するまで僭主の座にあったとされる。アッティカの統一と経済・文化の改善によって、のちのアテナイの優位の土台を築いたと評される。七賢人の一人ソロンの友人であったが、政治思想では対立し、ソロンを亡命に追いやったと伝えられる。

出身はアッティカ東部ブラウロン近くのピライダイ区である。若いころのことはあまり知られていない。父ヒッポクラテスはオリュンピアの祭典で犠牲を捧げた際、火もないのに釜の肉(水とも)が煮え立つ奇跡を起こし、これを目にしたスパルタのキロンから、妻を離縁するか、子が生まれても認知しないよう勧められた。ヒッポクラテスは従わず、のちにペイシストラトスが生まれた。ペイシストラトスは最初、紀元前565年ごろにメガラの港ニサイアを攻め取った将軍として名を知られた。この勝利により、数十年来アテナイの食糧不足の一因となっていた通商の封鎖が解けたという。

ソロンが去ったのちもアテナイの分裂と混乱は続き、地理と経済の両面から三つの党派が争っていた。平野に拠る党と海岸に拠る党があり、これに加わった三つ目が高地党である。高地党には貧しい者、市民権を失うことを恐れた新来の移住者、債権を取り立てられなくなった貸し手など、さまざまな動機でペイシストラトスに味方する人々が集まった。これはソロンが負債による奴隷身分を廃止して平民に譲歩した後も、貧しい民衆がなお多かったことを背景にしていた。

ペイシストラトスは、自らを傷つけて政敵に害されたと偽り、護衛部隊を要求して認めさせ、それを使ってアクロポリスを占拠した。この独裁は海岸党と平野党の追放によってすぐ崩れた。両党の抗争を収めるため、アルクメオン家のメガクレスは独裁権を与える名目で彼を呼び戻したが、のちに再び追放した。そこでペイシストラトスは、テーバイの義援金、アルゴスの傭兵、ナクソスの軍資金と兵を得てエレトリアを出発し、マラトンに上陸してアテナイ軍と対峙した。昼食時を狙って敵を壊滅させ、アテナイの実権を握った。この過程の年代は、紀元前561年とされる。またマケドニアから多くの鉱夫を連れてきて、技術の問題で採掘が困難だったラウレイオン銀山を掘らせた。伝承ではアテナイで初めて貨幣を鋳造したのはソロンとされるが、実際に最初に鋳造したのはペイシストラトスだとする見方もある。

統治にあたっては強力な護衛部隊を整え、貴族を抑えて、自らの基盤である小農民や商工業者を保護した。貴族の特権を大きく減らし、その土地を取り上げて貧しい人々に与えたともされる。経済の強化、貧しい農民の救済、エレウシスの秘儀とディオニュシア祭のアテナイの行事への広い組み入れ、ホメロスの叙事詩の決定版を作る最初の試みが、その遺産に数えられる。宗教や芸術の事業に多く出資し、富を民衆に行き渡らせようとした。亡命したソロンは、独裁を許したアテナイ市民を非難したが、ペイシストラトスは書状を送って帰国を促した。この政権は独裁ではあっても小自作農や商工業者の生活が安定した時代で、アリストテレスはこの時代をアテナイの全盛期と主張している。権力は息子ヒッピアスに継がれたが、スパルタ王クレオメネス1世と手を結んだアルクメオン家の人々に追放された。ペイシストラトスとその息子ヒッパルコス、ヒッピアスの三人は、紀元前546年から紀元前510年までアテナイを治めた僭主の家系として知られる。

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