HISTORICAL PERSON · 535年没

ヨハネス2世 (ローマ教皇)

生涯
535年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ヨハネス2世は、533年から535年までローマ教皇の座にあった人物である。生年は470年ごろとも475年ごろとも伝えられ、535年5月8日に没した。本名はメルクリウスといい、ローマの生まれで、父はプラエイエクトゥスという人物だった。ローマ神話の神にちなむ異教風の名を負っていたため、教皇に就いたときに別の名を名乗ったとされ、これが教皇が即位時に新しい名を名乗る慣行の始まりとされる。もっとも、「初めてであるらしい」とされるにとどまり、確実とは言い切れない。

彼は教皇になる前、チェリオの丘のサン・クレメンテ聖堂の司祭を務めていた。この聖堂は、生前の彼の寄進を今に伝えている。「メルクリウスと呼ばれたヨハネス」の記念が残り、古い天蓋の断片には「司祭メルクリウス」の文字が読める。聖歌隊席を囲む大理石の板の多くには6世紀風の様式で彼の組み文字が刻まれ、彼は彫刻を施した欄干や透かし彫りの大理石の仕切りを寄進したという。

彼が選ばれた背景には、聖職売買の横行があった。当時は教皇や司教の選挙で聖職や役職の売買が非常に多く、前任者の死後には2か月以上の空位が続き、その間に祭壇や聖器の恥知らずな取引まで起きたという。この問題はローマ元老院と、ラヴェンナにいた東ゴート王の宮廷にも持ち込まれ、教皇選挙での聖職売買を禁じる元老院の決議が出された。これはローマ元老院が出した最後の同種の決議として知られ、東ゴート王アタラリックが承認して、533年に古いサン・ピエトロ聖堂の前庭に大理石に刻んで掲げさせた。アタラリックはさらに、選挙への異議がラヴェンナの官吏に持ち込まれた場合、聖職者か民衆の側が裁判所に3千ソリドゥスを払い、その金は貧者に回すと定めた。ヨハネス2世は終始アタラリックと良好な関係を保ったと伝えられる。在位は2年余りと短かった。

教皇としての最大の問題は、東方の神学論争であった。ユスティニアヌス帝は自らの信仰告白と贈り物をローマに送った。そこには「三位一体のうちの一者が十字架につけられた」という定式が含まれていた。この定式は、諸派を調停する手段として提示されたもので、前任の教皇ホルミスダスが退けたものであり、のちに修正された形で擁護される一方、不眠修道士と呼ばれるアコイメタイ派の修道士に攻撃された。皇帝とコンスタンティノープル総主教エピファニオスがローマへ使節を送ったのを受けて、ヨハネス2世は教会会議を開いてこの派を破門し、皇帝の教理を承認する声明を出した。これは前任者ホルミスダスの立場に反する教理を公にする勅令の承認だったともされる。

リエズの司教コンテュメリオスは姦通の罪で訴えられ、教皇はガリアの司教たちに命じて彼を修道院に幽閉させ、後任が決まるまでリエズの聖職者にはアルル司教に従うよう指示した。535年にはカルタゴに集まった217人の司教が、アリウス派に陥った司教が悔い改めた後に地位を保つべきか、俗人としてのみ聖体拝領に受け入れるべきかという問いを教皇に送った。しかし答えを出したのは、その年の5月8日に没したヨハネス2世ではなく、次の教皇アガペトゥス1世であった。彼はサン・ピエトロ聖堂に葬られた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物