伝記
ハドリアヌス5世は、1276年にわずか1か月ほど在位したローマ教皇である。本名はオットボノ・フィエスキといい、1205年ごろ、ジェノヴァの有力なラヴァーニャ伯爵家であるフィエスキ家に生まれた。ジェノヴァで当時の四大有力家の一つとされ、教皇派の中心でもあった家柄である。父はテディジオといい、その兄が後の教皇インノケンティウス4世だったため、オットボノは教皇の甥にあたる。妹がピエモンテの領主トンマーゾ2世・ディ・サヴォイアに嫁いだことで、サヴォイア家ともつながりを得た。
若いころのことはあまり分かっていないが、早くから聖職者の道に入り、パルマなどで助祭長や参事会員を務めたとされる。1243年に叔父がインノケンティウス4世として教皇に選ばれると、その引き立てで教皇付き司祭に任じられ、1250年代の初めにはサンタドリアーノの助祭枢機卿に任命された(叙任の年は1251年とも1252年ともいわれる)。1259年にはサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の首席司祭にもなった。叔父の死後もローマ教皇庁で影響力を保ち、イングランド王ヘンリー3世とのシチリア王位をめぐる交渉にも関わった。この経験が評価され、1265年に教皇クレメンス4世から、イングランドへの教皇使節に任命された。
同年、彼はローマを発ってパリを経由し、10月にイングランドに入り、11月にカンタベリーでヘンリー3世に謁見した。12月には会議を開き、任務の目的である第二次バロン戦争の和解、教会の改革、十字軍への参加の呼びかけを表明した。反乱諸侯を支持した司教4名の職務を停止し、王の敵を破門するとも述べた。シモン・ド・モンフォールはすでにイーヴシャムの戦いで戦死していたが、王は元モンフォール派への復讐に執着し、平和への道は遠かった。国王寄りの立場ながら調停に熱心に取り組んだため、ある人物に敵視されてロンドン塔に数日間とらえられたとも伝わる。それでも交渉を続けて宣言を出させ、1267年4月にグロスター伯ギルバート・ド・クレアがロンドンを占領して寛大な講和を迫ると、政府も宣言を受け入れた。続いてウェールズのサウェリン・アプ・グリフィズとヘンリー3世の和解にも取り組み、1267年9月に合意が成立した。教会改革では、モンフォール派の破門を解き、1237年の教皇使節の法令集をもとに新しい教会法令集を発布した。1268年7月に任務を終えてイタリアへ戻った。
その後は枢機卿団で重きをなし、1274年の第2リヨン公会議にも出席した。1276年7月11日、シャルル・ダンジューの支持を受けて、インノケンティウス5世の後継の教皇に選ばれた。病弱だったため、枢機卿らが状況を早く収めるための「つなぎの教皇」として選んだともいわれる。教皇となると、翌日に枢機卿団を集め、グレゴリウス10世が定めたコンクラーヴェの制度を破棄して新しい制度の制定を約束した。しかし酷暑を避けてヴィテルボに退き、そこで重病にかかり、8月18日に没した。司祭・司教への叙階も戴冠も受けないままだったが、教会法上は教皇の一人に数えられる。ダンテの『神曲』では、貪欲の罪を償う者として煉獄に登場する。
同じ年に亡くなった人物
- ムバーラク・シャー (チャガタイ家) (1276年)
- イブン・サイード・マグリビー (1276年没)
- ヴァシーリー・ヤロスラヴィチ (ウラジーミル大公) (1276年没)
- Coppo di Marcovaldo (1276年)
- スムバト・オルベリャン (1276年)
同じ地域に関係する人物
- クレメンス4世 (ローマ教皇) (1268年没)
- Gianna Maria Canale (2009年没)
- ヨハネス21世 (ローマ教皇) (1277年没)
- オットー3世 (神聖ローマ皇帝) (1002年没)
- エンニオ・ファンタスティキーニ (2018年没)