伝記
孝明帝は、北魏の第8代皇帝である。本名は元詡といい、宣武帝の次男として510年3月、洛陽の宣光殿の東北に生まれた。宣武帝にはほかにも男子がいたが、いずれも幼いうちに亡くなり、元詡はこの時点で生き残っていた唯一の息子だった。宣武帝は経験のある乳母を何人も選び、母の胡氏と皇后の高氏が近づくことを禁じたという。高氏の叔父の高肇が先の皇子を殺したとの世評があったためかとされる。512年に皇太子に立てられたが、北魏には皇太子の母を死なせる慣例があったにもかかわらず、宣武帝は胡氏を死なせなかった。
515年1月に宣武帝が急死すると、5歳の元詡が即位した。官僚の于忠や皇族の高陽王元雍、任城王元澄らが高氏から実権を奪い、高肇を殺して、胡氏を皇太后に立てた。幼い皇帝に代わって、はじめは元雍や元澄が聴政し、8月に胡太后が宣光殿で臨朝称制して、朝政の実権を握った。胡太后は聡明で物事の理解が早かったが、腐敗に寛容で、私生活も乱れていたとされる。一方で、率直な諫言をする東平王元匡や張普恵らに褒賞を与えるなど、批判を許すこともあったが、腐敗を抑える提案の実施には消極的だった。同年冬には、岐州刺史で趙王の元謐が理由なく人を殺して民衆の蜂起を招いたが、胡太后は、その妻が自分の姪にあたることを理由に、都へ戻った元謐を大臣に取り立てたという。
胡太后は熱心な仏教徒で、洛陽に壮麗な寺院を建て、なかでも518年に没した父の胡国珍のために建てた寺は特に美しかったという。さらに、各州に仏塔を建てるよう命じ、それが国庫と民の負担をさらに重くした。その影響で孝明帝も仏教に深く帰依した。ただ若い頃は、学問や政務よりも宮中の庭園で過ごすことを好んだという。また、官吏登用の規則を巡って519年に起きた事件では、張仲瑀が兵士の文官就任を禁じる案を出したことで、兵士が怒って役所と張仲瑀の父の張彝の屋敷を襲い、張彝を殺した。胡太后は首謀者8人を処刑して残りを赦し、規則の改正も退けた。この事件は、のちに北魏を引き裂く動乱の始まりと見られている。
520年より前、胡太后は叔父の清河王元懌に関係を強い、元懌が政治の中心となって腐敗の是正を試みた。これに対し、胡太后の義弟の元叉と中常侍の劉騰は、孝明帝に政権を返すとの名目で、同年に胡太后を幽閉した。元叉と元雍の二頭体制となったが、実際は元叉が朝政を専断し、乱脈をきわめた。この間、初年の大乗の乱で河北は動揺していた。523年には沃野鎮の破六韓抜陵が起兵して鎮将を殺し、六鎮の乱が始まった。胡琛・葛栄・杜洛周らも次々に叛き、徐州の元法僧や東豫州の元慶和は南朝梁についた。
525年4月、胡太后が再び朝政をみるようになり、元叉は兵権を奪われて翌年に処刑された。しかし朝政は弛緩し、六鎮の乱は拡大するばかりだった。528年2月、孝明帝は胡太后を牽制し、その愛人の鄭儼を殺すため、将軍の爾朱栄と手を結ぼうとしたが、これが露見して毒殺された。19歳没とも、18歳ともされる。胡太后は孝明帝の娘を男子と偽って帝位に即けたが、露見して退け、従兄の子の元釗を立てた。これが爾朱栄の反発を招き、胡太后は河陰の変で殺害された。以後は傍系皇族の擁立と廃位・殺害が相次ぎ、皇室は実権を失った。爾朱栄が立てた次の皇帝は孝荘帝で、530年11月に爾朱栄を殺害したが、対立する将軍の宇文泰と高歓がそれぞれ皇族を擁立したため、国は分かれ、534年に北魏は東魏と西魏に分裂した。