HISTORICAL PERSON · 523年没

武寧王

百済の第25代王。高句麗に漢城を奪われて混乱した国の安定を回復し、512年に高句麗へ打撃を与えた。521年に梁へ入朝して爵号を進められ、1971年に墓誌が出土して王陵が特定された。

生涯
523年没
死亡地
—
出生地
日本(佐賀県 / 加唐島)
出典
世界地図
日本(佐賀県)

伝記

武寧王は、百済の第25代の王である。在位は502年から523年までとされ、501年からとする記述もある。諱は斯摩で、分注では隆ともされ、墓誌には斯麻王と記される。『梁書』には余隆の名で見える。旧都の漢城を高句麗に奪われて混乱した百済の安定を回復した王とされる。

生年は、墓誌から462年と判明している。出自については記録が分かれる。『三国史記』によれば先代の牟大王(東城王)の第2子である。一方、『日本書紀』雄略天皇紀5年(461年)条によれば、百済の加須利君(蓋鹵王)が、弟の昆支王を倭国に送るにあたって、すでに身ごもっていた自分の婦を与え、途中で子が生まれたら送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(加唐島)まで来たところで子が生まれたので、嶋君と名付けて百済に送り返したといい、これが武寧王だという。武烈天皇紀4年条が引く『百済新撰』は昆支王の子で東城王の異母兄としながら、「今考えるに、島王は蓋鹵王の子である」とも記し、異母兄というのは詳しくは分からないとしている。

『三国史記』によれば、東城王が501年12月に暗殺されたのち、都の熊津で即位した。暗殺者である衛士佐平の苩加は加林城に拠って抵抗したが、すぐに鎮圧された。武寧王はしばしば漢江流域への高句麗と靺鞨の侵入を撃退し、512年には高句麗に壊滅的な打撃を与えている。そのほか、501年に高句麗の水谷城を攻め、503年に靺鞨の攻撃を退け、507年にも高句麗・靺鞨の軍に対抗し、523年には北の国境を守る城壁を築かせたとされる。この間も、百済は新羅との同盟を保って高句麗に当たった。

対外関係も広げた。521年には中国南朝の梁に入朝して、「百済はかつて高句麗に破られて何年も衰弱していたが、高句麗を破って強国となったので朝貢できるようになった」と上表した。梁からは、もとの都督百済諸軍事・寧東大将軍・百済王に、使持節が加えられた。日本とは、512年と513年に倭国から任那の四県や己汶・滞沙の地が百済に譲られたと『日本書紀』が伝え、これに応えて百済は516年、日本に送っていた博士の段楊爾に代えて、五経博士の漢高安茂を送った。503年に鏡を送ったとも伝わる。

523年5月に死去し、武寧王と諡された。後を継いだのは聖王(余明)である。太子淳陀が先に亡くなったため、聖王が代わって太子になったという解釈も可能である。一方、『日本書紀』は513年に百済の太子淳陀が倭国で死去したと伝える。桓武天皇の生母である高野新笠は、武寧王を遠祖とする渡来人系の和氏の出身と『続日本紀』にあり、2001年には当時の天皇が、桓武天皇の生母が武寧王の子孫と記されることに韓国とのゆかりを感じると述べたが、実際に子孫かどうかを疑う説もある。1971年、公州の宋山里古墳群から墓誌が出土し、武寧王陵と特定された。墓誌には「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳」とあり、523年5月7日に亡くなったことが記され、生没年が分かる貴重な史料となった。王妃と合葬された磚室墳で、棺材は日本にしか自生しないコウヤマキと判明して話題になった。金環の耳飾り、金箔を施した枕や足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝から舶載された銅鏡、陶磁器など約3000点の遺物が出土した。和歌山県の隅田八幡神社の国宝「人物画像鏡」に「癸未年」の銘と、「男弟王」の長寿を祈って鏡を献上した「斯麻」の名があり、これを武寧王とみる見方が強い。

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